2019年10月水害(宇都宮・田川付近)調査報告書ができました。2020年2月に実施したアンケートでは448件・763人の皆さんからご協力いただきました。ありがとうございます。全編170ページなので、概要版(16P)と各章ごとに分けたものも公開します。
・トピック①:時間×地点ごとの浸水状況がわかります。
・トピック②:実際の避難行動はどうしたのか
・トピック③:自家用車の被害地点、家屋修理費用(出費)も
今後水害に備えて、現実的な避難場所の検討も必要だとおもいます。自治会等で検討する参考にしていただければ幸いです。
宇都宮市塙田2-5-1 共生ビル3F
とちぎVネット内 電話080-3505-817(火曜定休10-17時)
●田川の水害で被災した家屋の片付け、生活の復興支援のボランティアをしています。
●DIYセンター(自分で家を補修)したい人)に工具、機材、車をお貸しします。
●毎週金曜は [子ども食堂/地域食堂] 災害後の地域づくりも応援します。
復興ボランティア10万人を支える募金です
👈寄付サイトはこちら
・復興のまちづくりなどの活動に使われます。
・まもなく1次助成も公募開始!
スマートサプライ:物品応援サイト
👈サイトはこちら
・必要なものが、
必要なだけ、
素早く応援できる。
10,000棟の床上浸水。ボランティア10万人を支える募金
地域の復興を支援します。
第1回助成金の公募が開始しました。
●「人生の岐路に立っている」ので能登ボラ
6/28~6/30の2泊3日で、能登半島災害復興支援ボランティアへ行ってきました。私自身、今回が初めての災害ボランティアで、どんな現場で何をするのか?何ができるのか?と不安も多い中での参加でした。
参加した理由は、栃木にいながら大きな地震を体感し(なんとなく)能登半島地震を身近に感じていたからです。また、私自身、人生の岐路にたっていると感じており、もし何か自分にできることがあれば、なんでもやりたいとの想いから今回の参加に至りました。
能登の現状は、半年たった今も復興が進んでおらず、倒壊した家が町中に並んでいました。地域によっては未だ断水が続いており、隣の町まで給水に行っている方もいらっしゃいました。住居のすぐ後ろにある山は、崩れかかっており、地震だけでなく、これからの季節の雨風による土砂災害も心配なのが現状です。
●出会った人と、干上がった漁港の草刈り…
現地での活動は、様々な活動をスタッフで手分けをしながら行いました。私は、足湯の提供や、ご自宅の片付けなどに携わりました。終始笑顔で話されてる現地の方たちの、一瞬表情を曇らせながら話す、震災当時や現在の想いに言葉が出なくなることもありました。
様々な活動を行う中でも、特に印象的だったのは、早朝の散歩中に、たまたまお会いした方とお話をしたことで、その日の活動につながったという出来事です。この真浦地区は2mの海底隆起で漁港が使えず、水も出ないので生活ができません。14世帯のほぼ全部が地区外に避難してます。お住いは車で1時間ほどの場所へ避難しているそうですが、犬の世話や周辺の草刈りに通っているとの事で、膨大な敷地を1人で草刈りをしているところでした。
私たちボランティアが、草刈機を栃木から持ってきていたので、ぜひそれをやらせてほしいと、その日の午前中はスタッフ一同で、漁港周辺の漂着ゴミ拾いもしました。いつもは住民総出でゴミ拾いするそうですが、3人しかいないのでそれもできません。
現地の人の声を直接聞き、問題があった時にそこに対応できる余裕を持つことの大切さを感じました。
ボランティアに行く前は「何を」するんだろう?と表面上でしか活動を捉えられていませんでしたが、何のために能登の現場に行ったのかという本質的な所を考えるきっかけになった活動でした。現地の人のお役に少しでもなれたのなら幸いです。
●能登の現状を伝える。仲間を増やす。
実際にボランティアに行って、できることは些細なことかもしれませんが、その中でも現地の方が1人でも、一瞬でもリラックスしてくれる環境がつくれたり、1人で難しいところをお手伝えたり、そういう活動が継続的に、これからも広げていけたらいいなと思っています。
栃木に帰ってきて、私ができることは、能登の現状や感じたこと、考えたことを皆さんに伝えて、能登について考えるきっかけになるよう情報を発信をしていくこと、行く人を支えてくれる人を増やすこと、実際に現地に行く仲間を増やすことです。
できることは小さなことですが、私の1歩がその先にいる誰かの役に繋がることを信じて、活動をしていきたいと思います。これからも機会があれば私自身もまた能登半島へ行きたいと思います。(森満里奈/無職)
※毎月第2、第4金曜日出発「奥能登週末ボラ」。行く人募集>>こちら
半年経ってもまだひどい。町野町の現状
6月14日から16日のチームIは、男性5人女性5人のバランス型チーム。20代の参加者も4人と、平均年齢低めのパワフルなチームだった。私は2月から事務局で何人ものボランティアを派遣してきたが、今回は派遣終了を目前に自分の目で現地を見ることにした。一日目は20時40分に珠洲市の宿泊先に到着。二日目は8時から作業開始。9時頃から作業班と足湯班に分かれた。私は足湯班として町野町の集会所に向かったが、想像を絶する町の様子に言葉を失った。こんなにも建物の倒壊がひどいものかと。そして、何よりも半年以上経った現状であることが信じられなかった。三日目は作業班、口腔ケア班、子供班に分かれて活動終了。16日22時頃宇都宮へ帰還した。
倒壊した家の中を歩いた。まるでトリックアート
モトヤスーパーでアイスを無料で配りながら現地の子供たちと交流を深めていくうちに、被災した実家を見せてくれた子がいた。小学二年生で現在は金沢で生活しているという。週末になると町野に戻ってきている。家は旅館で、震災当時は翌日の料理の仕込みが行われていた。トリックアートのように家屋が傾き、まるで平行四辺形の中にいるようだった。しかし、家は両側の倒れてきた家屋に支えられ、完全に潰れることは避けられた。本人は両親と茶の間にいたが、命からがら逃げだしたという。「向かいの家のおじちゃんも、隣の家のおばちゃんも家の下敷きなって亡くなった」と言った。向かいのおじちゃんは、地震発生後一度外に出たのにも関わらず、安全を確認して家屋に戻ったときに家が倒壊して帰らぬ人となった。その証拠に廊下で亡くなっていたという。
町野の家はどれも立派な家ばかりだった。瓦が黒く、木造の大きな家が多くみられた。潰れた家屋を見るたびに、自分が中にいたら決して生きてはいられないだろうと強く感じた。
大人も子供も今を必死に生きている。目の前にあることを懸命に
モトヤスーパーでは別団体の炊き出しが毎週土曜日に行われており、土曜日はスーパーを中心に町民が大勢集まる。私がスーパーにいた時、偶然再会したと思われる女性二人組に遭遇した。「○○さん、無事だったの!良かった…」と、半年ぶりの再開を喜ぶ二人が印象的だった。それから、たくさん一緒に走り回った子供たちの笑顔も忘れられない。倒壊した実家を見せてくれた少年は、現在金沢の小学校に通っているが、同じ町野小学校の子は誰もいないという。しかし、新しい学校もすごく楽しいと教えてくれた。彼に限らず、みんな学校がばらばらになってしまった。大人以上に何が起こったかわからない子供も、子供なりに置かれた状況を懸命に生きている。早く町野の復興を進めて、一日でも早く以前までの環境に戻したいと思った。
ボランティアの手を休めてはいけない
町野の人々はボランティアにたくさんの感謝を伝えていたのが印象的だった。一日と半日のボランティアがどれだけ役に立てているのか少し不安だった。しかし、ボランティアが来てくれるだけでありがたいという言葉を何度も耳にした。私たちのボランティア活動は6月末を目途にいったん終了するが、事務局として7月以降の支援も考えながら今回は参加したが「中止してはいけない」と強く感じた。4月から約3か月間、多くのボランティアの協力のもと、町野町との絆を築いた。このつながりをやめてしまうのは今までボランティアに参加してくださった方にも申し訳ない。加えて、町野町の人たちもまだボランティアを欲している。物理的な町の復興は進んでいない。倒壊した家屋だらけだ。するべきことがまだ山のようにある。7月以降もなにか方法を考えてボランティアを派遣したい。(吉田)