•「火事か」と思うくらいの土煙
今回は福島県大熊町から鹿沼市に避難した、武内都(たけうち・みやこ)さんに話を伺った。
震災が起きた日、武内さんは中学校の卒業式で子供たちを見送り、ほっこりした気分で帰っていた。その帰りに地震は起きた。数日前から地震はちょくちょく起きていたが、それとは比にならないくらいの大きさだった。庭に出ると屋根瓦やアンテナが倒れてきたり、遠くを見て見ると、火事かと思うぐらいの土煙が上がっていたという。おそらく、多くの家の屋根瓦が落ち、倒壊した家のものだろうという。孫を迎えに行こうとしたが、水道管が破裂し、道路が浸水して、迎えに行けなかった。幸い近所の人が遠回りをして送ってきてくれて孫と出会えた。卒業式のほっこり気分から一変。まさかこの先、慣れ親しんだ日常が失われてしまうとは夢にも思わなかった。また3月11日は卒業や進級、受験シーズン。やりきれない思いをした人がたくさんいたと思うと、本当に胸が苦しくなる。
•家族と散り散りの避難。コンクリート打ちっぱなしの床で寝た…。
その日は車の中で一晩を過ごし、朝になると落ちた瓦の片づけを始めていた。その時、町の防災無線で「集会場に集まれ」との連絡が入った。行ってみると、突然「避難しろ」とだけ言われ、原発については、「大丈夫だから」としか言われず、細かい情報を教えてくれなかった。また、住民自身も「原発が爆発するなんてありえない」と思っていたという。
私たちラジオ学生で、双葉町の「東日本大震災・原子力災害伝承館」に行ったことがあるが、そこには小学生のポスターで「原子力発電所は環境にやさしい」と書かれたものが掲示されていた。そのようなものを見ると、当時、原子力発電所は環境負荷を与えず、「とても良いもの」として考えられていたのだなと思う。そんな原子力発電所がまさか爆発するなんて幼い子供はもちろん住民でさえも考えつかなったのだろう。
集会場で避難のバスが来るのを待った。原発に近い集会からバスが来るため、空きは4,5人と少なかった。子供やお年寄りの人を先に乗せて行かせた。しかし、後からバスで向かったら着いたところが先行バスと異なり、家族がバラバラになってしまった。武内さんも両親を介護タクシーにお願いして先に避難所に行かせたが、バスがなくなってしまったので、後から自衛隊のトラックに乗って避難した。しかし、避難場所が違い離れ離れになってしまった。移動で、山に着いた時には、もう夕方ごろになり、とても寒かったそうだ。ところが、避難所の空きがなかったのかどんどん西のほうへ連れて行かれた。やっと郡山の西、磐梯熱海温泉のホテルの避難所について安心したのもつかの間、「放射線を測らないと中には入れられない」と言われたそうだ。そして郡山に戻り、またホテルに帰ったのは夜…。
このように、連携も連絡も統制も取れていないのが避難の実態だったようだ。簡単に避難所に入ることはできず、また、居られる期間にも限りがあるため、さらに県内を移動を重ね、時には、コンクリート打ちっぱなしの冷たい床にブルーシート一枚しいて、寝たこともあったそうだ。
•「気持ちは生まれ故郷。心と体が半分になった気分」
その後、武内さんはご両親とも無事合流することができ、普通車に5人と布団を積んで宇都宮に移動した。娘のいる宇都宮に着き、お風呂に入ったときはほっとし、涙がぽろぽろ落ちてきたという。当時は「これからどうしよう」という不安もあったが、今日のラジオでは「鹿沼はとっても良いところです!」と満面の笑みで答えていた。
しかし、「地震だけだったら(故郷を)追われることがなかった。大事な故郷を追われるような悲しい思いを他の人にしてほしくない。」と語っていた。
「避難での新しい出会いもうれしいが、気持ちは生まれ故郷にあり、心と体が半分になった気分だ」と言う。
(加藤)