【能登ボラふり返り】 惨事便乗の復興

 12/28、今年最後の能登ボラだった。いつもお世話になっている町野町金蔵地区で餅つき。住民の皆さん20人位と栃ボラ17人。

 

集落95人中、13人残り。他は2次避難

 

 金蔵集落は元は53軒95人の山上の集落。室町時代から溜池で、天水のみで36町の棚田を作ってきた。1/1の地震で全壊・半壊家屋35件と棚田の亀裂、町野への道路不通、11個あった溜池は3つ残して使えなくなった。今年の作付けは5反しかてきなくなった。

 

「戻って来たい人が戻れるように」が集落(コミュニティ)の基本。

 

 2月下旬ここに初めて来たとき区長の井池さんは、仮設住宅を集落内に作ることを市に要望していた。断水で、集落に残っているのは13人だけ、市の炊き出しは毎日1回の弁当配布がやっとはじまった頃だった。隣の地区は全村避難をしていたが金蔵はそうしなかった。「集落は人がいることで維持される、戻りたい人が戻って来られるようにするのが大切」という。コミュニティを壊さない、を教訓にしてきたのが阪神淡路大震災からの30年だった。

 

仮設も集落外、復興住宅も集落外。コミュニティが壊される

 

 区長さんたちは「旧金蔵小跡地を仮設住宅用地に」と地権者に交渉し、条件整備して市と交渉したが、輪島市は町野町中心地域に仮設を2か所作った。

 6月、仮設ができはじめ集落に人が戻ってきた。金蔵は66人になった。といっても、うち21人は6キロ離れた仮設に住んでいる。

 9/21能登豪雨。地震で崩れ亀裂がはいっていた山は、立木ごと崩れ小河川の橋を塞ぎ平地の町野は大水害になった。仮設のある町野地区と金蔵は地震のときの3倍の山崩れで再び通行不能。断水と通信不能、さらに残った溜池3つも決壊した。

 10月「復興住宅を金蔵に」と要望したものの、またも市は町野町中心地区に建てるという。「住民には一度も意見をきくこともなく」と区長さん。

 

ショックドクトリン! 惨事便乗政策。…反対署名募集中!!

 

 何故こんなに頑ななのかと聞くと「コンパクトシティ構想」が財務省、総務省・国土交通省にあるからで、1軒の家のために道路維持し電気通すのは無駄、過疎地域は切り捨てていくという国の発想=政策がある。これでは財政力の弱い過疎地域の自治体はしたがわざるを得ない。

 これはショック・ドクトリン(惨事便乗政策)だろう。

 物言わぬ風土の能登の高齢者。山紫水明の地、棚田や集落の人と離れてそう長く元気でいられないだろう。6キロはいつでも行ける距離ではない。足で歩く畑に出る顔見知りと話すという日常を取り戻すのが田舎の復興の基本だ。国の都合でコミュニティ壊すのはやめてほしい。

 金蔵集落の人たちは要望書の署名を集めている。もちろん栃木のボランティアもみんなで署名した。

 復興住宅の「復興」とは何かが、問われている。(矢野正広)