宇都宮から車で約 9 時間かけて能登半島の山間の地域にある私たちが今回泊まる集会所に到着した。その時にはすでに深夜 1 時を回っていた。
川沿いの崖に建つ家は、基礎の下がない。
翌日、朝ご飯を食べ、いよいよ被害が大きいと言われている、中心部のもとやスーパー近辺に向かった。そこに行くまでは「地震から約 11 か月もたち、豪雨から約1か月半立っているので、復興はある程度進んでいるのでは」と思っていた。しかしそう考えた私は、車に乗り道中を見ていく中ですぐに考えが甘かったと後悔した。想像をはるかに超えていた。川沿いの崖の家は、基礎部分の土砂が抜け落ちている。大木が散乱した田畑、土砂崩れで埋もれた家々、一階部分が崩れ落ち、あたかも二階建ての家が一階建てのようになった家々。。。言葉を失った。
「津波と同じだ」
そうこうしているうちに中心部のスーパーに到着すると、被害の全容を明確に知ることができた。地震で多くの家屋が崩れ、そこに豪雨による河川の氾濫によって土砂が流入したのが。
この状況は、東日本大震災の津波のようなものと直感的に感じた。津波も同じように、地震の後に、土砂を巻き込んで海水が流入する。しかし、今回の複合災害が地震と津波の複合災害と決定的に異なるのは、地震と豪雨は切り離された関係であり、その二つの災害がたまたま同時期に起こってしまったことにある。そこがこの災害のとても悲惨な部分であると感じた。
「地震⇒ヘリ、⇒2次避難所⇒ホテル転々、⇒能登仮設に戻る」
今回のボランティアでは、家屋内の地震で崩れ落ちた土壁の清掃と足湯ボランティアをした。特に、足湯ボランティアが印象に残っている。この地区は地震の仮設住宅があるものの、9月の豪雨で新たに避難してきた人たちがいた。子供3人と明るくふるまってくれた5人家族。一人で仮設住宅で暮らす年配の人、様々な人が足湯を利用してくれた。
「足湯をしながら、手や肩のマッサージを行い、その中で話をし、心理的にも肉体的にも、疲れを取ってもらおう」という活動だ。多くの被災者と話ができた。共通していたのは「地震で被災し、ヘリで石川県外へと避難し、同じ集落の人と離れ離れの中で生活し、避難所となっているホテルを転々としながら、仮設住宅ができたため、また能登半島に戻ってきた」ということだった。
「転居は、コミュニティを破壊する」と、学んでない政府!
私はここから、政府に対する疑念を持った。東日本大震災でも「被災前の近隣住民と同じ避難所に行けない」という問題があったにも関わらず、その教訓を生かし切れていないからだ。近隣住民などの知り合い(コミュニティ)がいなければ、その避難所で新たな「知り合い」を作らなければいけなくなり、年配の人にとってはそれはとても体力の使うことであり、困難を極めることは確かだ。
最後に、今回初めてボランティアに参加してみて、まだまだ被災地には問題を抱えていることを肌で実感でき、これからも能登に目を向け支援していきたいと思う。(相原光/宇大国際2年)