●元旦バイトで見たTV
2024年1月1日栃木県。「従業員スペース」にメロンパンの香り・味。アナウンサーの激しい声が響き渡るなか、私はただ呆然と流れる地震・津波…の文字を眺めていた。
元日のショッピングモール・バイトでの激務が眠気を誘う。いつもはここで仮眠だが、その日はテレビに映る危険信号が私の心を奪った。
●現場はいまだ非日常のまま
6月末、能登半島に行った。災害ボランティアの経験はなかったが、それがハードルになることもなかった。栃木から能登半島まで9時間ほどマイクロバスに揺られ、深夜に着く。海辺の旅館「海楽荘」で朝6時の太陽を浴びる。そこから1日半、本格的な活動に入る。
災害ボランティア=力仕事の概念が壊された。仮設住宅の一間で足湯ボランティアの存在を知ったのだ。湯につかる間はハンドマッサージを行いながら、傾聴する。この「即席地域サロン」では震災の話に限定せず、地元自慢や方言といった、何気ない話までもした。
家財道具の移動や海浜ゴミの処分など、汗をかく仕事もした。しかし作業の休憩時間にも家主や家族の人と話す瞬間があった。「暑いのにお疲れ様」とスポーツドリンクをいただいたり、「マッサージ気持ちよかった、ありがとう」と感謝のことばをかけてくれた。
能登半島の優しさ・気遣いが何よりも嬉しかった。ヘトヘトになりながらマイクロバスに乗り込む。ドアが閉まり動き出す。車窓からの眺めはまるで元旦当時の光景を写しているようで、1階が潰された家屋や傾いた電信柱、ブルーシートで何とか雨漏りを防ぐ家屋、その景色一つ一つが疲労しきった体に現実として襲いかかってくる。現場はいまだ非日常のまま。それが第一の感想だった。心残りのまま、栃木に帰る。
●「地震より水害の方がひどかった」
それから3か月後、また私は能登半島に行く決心をする。3か月経って現地はどうなったのか、またあの人に会えたらいいな、そんな想いを抱いていた。その矢先、現地で水害が発生する。
1週間後に迫るボランティア活動に向けて、宇都宮でミーティングが行われていた、まさにその最中にも。まだ雨は止んでいない、まだ被害は大きくなる。メディアやSNSの情報を頼りに、手探りのままミーティングは進んでいった。現場の状況が一変したが、それがハードルになることはなく、むしろ能登への想いが加速度的に高まった。
「地震より水害の方がひどかった」足湯で出会った人が話していた。その言葉がずっと心に残っている。前回泊まった「海楽荘」の店主が亡くなってしまい、海楽荘も土砂崩れに襲われた。現地での食料調達でお世話になった「もとやスーパー」も水害の被害が色濃く残っていた。私もまた、その人と同じことを思っていたのだ。
1日目の家財撤去の現場では、大量の土砂や枝木が奥まで侵入していた。土砂はヘドロのように重く、どれだけ掻き出しても出てくる土砂に悪戦苦闘した。家族が増えるごとに増築していったというその家にはたくさんの思い出が詰まっていた。それを一瞬にして奪っていった侵略者に私は恐怖と怒りを抱いた。汚れに注意しながらマイクロバスに乗り込む。車窓からの眺めは3か月前よりひどい姿だった。
●あの日の自分は、「遠くの誰かを思うこと」を忘れていた。
2024年1月1日。新しい年に希望を抱く日。抱くはずだった日。大切な景色が奪われた日。大切な人が奪われた日。時間が止まった日。その日その瞬間に、私は大切なことを忘れていた。遠くの誰かを想うこと。無事を祈ることを忘れていた。私は2回のボランティアを通して、他人事だった出来事が「自分事」になった。
●その日から後悔しているが、悩んでも意味ないから現地に行こう!
活動を終えたあの日から、私はいまだに後悔ばかりを抱いていて、例えば「もっと現地の方に寄り添えることができたのに」とか、「もっと体力があれば最前線で動けたのに」とか、他人からみたらどーでもいい悩みを抱えながら栃木にいます。でもどーでもいい悩みを抱える自分を認めてくれる、受け止めてくれる人(団体)がそばにいる。そんな幸せを噛みしめながら、今日も遠くの誰かを想って、がむしゃらに生きています。ありがとうございます。(篠原航太/大学3年)