「原発避難は容易ではない。」-事故発生から13年、宇都宮でふるさとを想う―

東日本大震災と東京電力福島第1原子力発電所の事故から13年が経った。そして今年の元旦には、能登半島地震が起き、今も多くの方が生活再建の道筋が見えにくい中で避難生活をしている。今回の能登半島地震の震源地近くにも志賀原子力発電所があった。

 

326日のみんながけっぷちラジオでは、「もしかしたら起きていたかもしれない原発事故」について原発避難の当事者である半谷八重子(はんがいやえこ)さんをゲストにお迎えし、特に「避難」にフォーカスして当時のお話を伺った。

 

大渋滞。避難は容易ではない。

半谷さんは当時、福島第1原発から3kmの福島県双葉町に自宅があった。地震発生時はこれまで経験したことのない大きな揺れに耐えるのに必死で、近くの高架橋が崩れているのにも気づかないほどだったという。そして揺れが収まった次の瞬間「原発はどうしたんだろう」と半谷さんの脳裏をよぎった。しかしこれまで「原発は安全安心」という神話を信じ込んで生きてきたため、危機的な状況であることなど疑いもしなかったと半谷さんは語る。

 

そして翌12日早朝、防災無線での双葉町全町民へ避難指示。この時も正しい情報はなく、23日でまた自宅に帰ってくるつもりで必要最低限のものを持ち、車で避難所へ向かった。しかし全町民の避難は容易ではなかった。道路は大渋滞で全く前進しない。半谷さんは普段2時間で行くことができるところを8時間かけてようやく避難所にたどり着いたそうだ。中には指示された避難所に行くことは諦めて他の町や親戚の家に避難した人もおり、町民はばらばらになってしまったという。

 

23日が、一生になってしまった」

「またすぐ帰ってこられるだろう」。避難指示が出て家を出たときの予想は、だんだん情報が明らかになるにつれて消えていった。

23日が一生になってしまった。ふるさとを置いて来なくちゃならない」。半谷さんのこの言葉には悔しさ、悲しさ、憤り、先を見通せない不安などたくさんの感情が込められている。そして双葉町から宇都宮市に避難し、新しい生活を始めてからもその感情は半谷さんの心の中にずっと残り続けている。桜を見ても綺麗だと思えない、椿の赤もピンとこない。13年経った今も「おめでとう」という言葉が辛く、年賀状が書けないと半谷さんは語った。

 

「語り継いでいくこと、自分の目で見ること」が大切 

今の小学生は震災や原発事故を経験していない世代になる。このように経験していない世代が増えていく中で、私たちができることは何だろうか。

 

半谷さんは「語り継いでいく」ことだという。震災や原発事故の記憶を思い出すのは辛いことではあるが半谷さんはこの思いから今回のラジオ出演を決めたそうだ。また、実際に現地に足を運んで自分の目で見ることも必要だとも語る。

 

(ラジオ学生 ながたき)