事務局ボラの初参加。「行く・つながる」これからもまた行こうと思った。

半年経ってもまだひどい。町野町の現状

 

 6月14日から16日のチームIは、男性5人女性5人のバランス型チーム。20代の参加者も4人と、平均年齢低めのパワフルなチームだった。私は2月から事務局で何人ものボランティアを派遣してきたが、今回は派遣終了を目前に自分の目で現地を見ることにした。一日目は20時40分に珠洲市の宿泊先に到着。二日目は8時から作業開始。9時頃から作業班と足湯班に分かれた。私は足湯班として町野町の集会所に向かったが、想像を絶する町の様子に言葉を失った。こんなにも建物の倒壊がひどいものかと。そして、何よりも半年以上経った現状であることが信じられなかった。三日目は作業班、口腔ケア班、子供班に分かれて活動終了。16日22時頃宇都宮へ帰還した。

 

倒壊した家の中を歩いた。まるでトリックアート

 

 モトヤスーパーでアイスを無料で配りながら現地の子供たちと交流を深めていくうちに、被災した実家を見せてくれた子がいた。小学二年生で現在は金沢で生活しているという。週末になると町野に戻ってきている。家は旅館で、震災当時は翌日の料理の仕込みが行われていた。トリックアートのように家屋が傾き、まるで平行四辺形の中にいるようだった。しかし、家は両側の倒れてきた家屋に支えられ、完全に潰れることは避けられた。本人は両親と茶の間にいたが、命からがら逃げだしたという。「向かいの家のおじちゃんも、隣の家のおばちゃんも家の下敷きなって亡くなった」と言った。向かいのおじちゃんは、地震発生後一度外に出たのにも関わらず、安全を確認して家屋に戻ったときに家が倒壊して帰らぬ人となった。その証拠に廊下で亡くなっていたという。

 町野の家はどれも立派な家ばかりだった。瓦が黒く、木造の大きな家が多くみられた。潰れた家屋を見るたびに、自分が中にいたら決して生きてはいられないだろうと強く感じた。

 

大人も子供も今を必死に生きている。目の前にあることを懸命に

 

 モトヤスーパーでは別団体の炊き出しが毎週土曜日に行われており、土曜日はスーパーを中心に町民が大勢集まる。私がスーパーにいた時、偶然再会したと思われる女性二人組に遭遇した。「○○さん、無事だったの!良かった…」と、半年ぶりの再開を喜ぶ二人が印象的だった。それから、たくさん一緒に走り回った子供たちの笑顔も忘れられない。倒壊した実家を見せてくれた少年は、現在金沢の小学校に通っているが、同じ町野小学校の子は誰もいないという。しかし、新しい学校もすごく楽しいと教えてくれた。彼に限らず、みんな学校がばらばらになってしまった。大人以上に何が起こったかわからない子供も、子供なりに置かれた状況を懸命に生きている。早く町野の復興を進めて、一日でも早く以前までの環境に戻したいと思った。

 

ボランティアの手を休めてはいけない

 

 町野の人々はボランティアにたくさんの感謝を伝えていたのが印象的だった。一日と半日のボランティアがどれだけ役に立てているのか少し不安だった。しかし、ボランティアが来てくれるだけでありがたいという言葉を何度も耳にした。私たちのボランティア活動は6月末を目途にいったん終了するが、事務局として7月以降の支援も考えながら今回は参加したが「中止してはいけない」と強く感じた。4月から約3か月間、多くのボランティアの協力のもと、町野町との絆を築いた。このつながりをやめてしまうのは今までボランティアに参加してくださった方にも申し訳ない。加えて、町野町の人たちもまだボランティアを欲している。物理的な町の復興は進んでいない。倒壊した家屋だらけだ。するべきことがまだ山のようにある。7月以降もなにか方法を考えてボランティアを派遣したい。(吉田)