「人間は一人では生きていけないから、世話になった恩をまた違う人に返して欲しい」

○200km先から、助けに来てくれた人

 11月14日の「原発避難10年目ラジオ」では、 福島県富岡町から小山市に避難した磯村福治(いそむらふくはる)さんからお話を聞いた。

 磯村さんは当時、福島原発のメンテナンスを主に行う建設業の仕事をしていた。そのため、震災が起こった3月11日、通信状況が悪いなか全国各地の発電所と連絡を取り社員全員の安否確認を行なっていた。何もかもが混乱状態であった日の翌朝、散らかった家の中を整理していると、近所の住民が誰もいないことに気づく。当時、富岡町に避難勧告が出されていたことに気づかなかった磯村さんとその奥さんは、慌てて隣村の川内村の公民館に避難した。

 公民館で窮屈な生活を送りながら、今後どうすれば良いのかが分からず途方に暮れていたところ、3日後に川内村の地区も避難勧告を受けてしまった。そこで、磯村さんは当時小山市に住んでいた娘さん夫婦の家に一時避難しようと考えた。しかし、そのとき既に車のガソリン量は底をついており、近くのどのガソリンスタンドも営業しておらず「小山市まで移動することはできない」と思った。ところが、当時磯村さんがしていた営業の顧客の一人が、新潟県から川内村までガソリンを持ってきてくれた。そのおかげで、無事小山市に行くことができたという。人の限りない温かさを感じたエピソードであった。

 

○「一人10万円給付して」と社長に直談判。原発避難当事者だからできたこと

 小山市に移動した翌日、磯村さんは原発事故当時の経緯を報告しに、東京にある本社を訪ねた。その時、磯村さんは社長に対し「社員一人ひとりに10万円の給付金を渡して欲しい。さらに、協力会社にもいくらかの給付金を届けて欲しい」と伝えた。磯村さんは、当時お金に困っているだろうと考えた社員たちのことを想って、自らの仕事上の立場を顧みず給付金の要請をした。磯村さんはこのことを振り返り「自分が避難者だから、何が問題で、何をして欲しかったかが分かった」と話していた。自分自身も避難をして大変な状況であったのにもかかわらず、人のために行動をした磯村さんの強さと優しさに心を打たれた。

 

○「苦しむ人がゼロになるまで」…原発は10年で終わってない

 最後にラジオを通して伝えたいことは何かと尋ねると「人間は一人では生きていけないから、世話になった恩をまた違う人に返して欲しい」と話していた。新潟からガソリンを持ってきてくれた人の恩を社員の人たちに返した磯村さん。作られた言葉ではなく、心から出てきた言葉であったため、私の心にずっしりと響いた。また、「人のために動くことは気持ちが良い」、「苦労している最後の1人でも2人でも助けようとすること、10年経っても20年経っても助けようとすることが大切だ」と話していた。原発避難の問題は未だに消えていない。苦しむ人がゼロになるまで、どんなに時間がかかっても戦い続けなければならないと思った。(櫻井)

 

今回のラジオはYoutubeにも載っています!ぜひ聞いてみてください!

リンク↓

https://www.youtube.com/watch?v=aBp4_kHcY00