今後の予定について


老人ホームから移動後亡くなった「災害関連死」も多数。

 

●TV映像の「他人事」が現実味になった

 

 以前からボランティア活動に興味があり、時間がある春休み参加しました。能登半島の被災状況は大学の講義でも紹介してもらいましたが、現地に到着して自分の目で見る被災地はより現実味を帯びてとても心が苦しくなりました。テレビの報道や写真ではやはりどこか他人事と捉えてしまう部分があり、実際に赴くことに意味があるのだと感じました。

  今回のボランティアは主に足湯とマッサージ、まけないぞう作りをしました。初日、2つの仮設住宅を訪問して初めて皆さんと話をしました。思っていたよりも、自分から家族や日常生活、また被災時の話をする人が多く、話を聞いてくれる人がいることは被災者にとって心の支えになるのだと感じました。

 

●防ごうと思えば防げた死

 印象的だったのはある人が災害関連死について話をしてくださったことです。「以前同じ老人ホームに通っていたが、災害で別の施設に移動しなければならず、のちに、施設環境が合わずに亡くなった人が沢山いる」と涙ながらに話してくれました。

 災害関連死は防ごうと思えば防げた死です。被災時に考えられる環境の変化によるストレスや、その原因を考えて対策を練ることが重要だと感じました。

 

●仮設イベントがコミュニティを拡大している

 2日めには、イベント参加者に仮設住宅の近隣に住む人、また現地NPOの仕事をしている人と話をしました。イベントが地域のコミュニティを拡大して、より強い絆になる機会を作っているなと感じました。被災地の人を繋げる機会を作ることで、より協力しやすい雰囲気を現地の人が感ていると思います。

  能登半島地震から一年が過ぎ、テレビ報道も少なくなり、私の周りにも地震や洪水があったことを忘れている人がいます。しかし実際に現地で見た光景は未だに復旧してなく、復興とは程遠いものでした。仮設住宅での生活も快適ではないですし、「早く元の生活に戻りたい」と切願している人の気持ちを理解していない人で溢れていると感じます。

 現地に行くのは簡単ではないし、義務でもありません。しかし、普通の生活に戻る事を望んで毎日頑張っている人ことを忘れないのが、被災地の人の後押しにつながると感じます。(大谷朱莉/学生)

#ボラサポ共同募金会

#日本財団

災害ボランティアにハマり、やめられない理由は「ボランティア仲間」

人は集まると自然と笑顔が生まれる

 

 今回の能登での災害ボランティアでは、地域の人と話をしたりまけないぞう作りをしたりしました。

 私は以前2回能登での災害ボランティアに参加したが、その時は地震で散らかった家の中の掃除や、浸水した床下の掃除など力仕事がメインだった。そのため今回のような被災者の方々ときちんと場を設けて交流するのは初めてで、「何かしなくては」と身構えていたが、まけないぞう作りを手伝い、話にまざり、一緒にお茶を飲み、笑顔にしてもらえる、その雰囲気の中にいるだけで幸せだった。

 この活動を通して二つのことを考えた。一つは「人は集まると自然と笑顔が生まれる」ということ。ふと周りを見れば、足湯をしながら話をしている人、ほっと一息ついている人、机を囲んでまけないぞう作りをしている人、どこでも人が集まると笑顔が生まれていた。これは被災地に限ったことではないと思う。しかし地震と豪雨で突然日常を奪われ常に不安を抱えながら生活する被災者にとって、そんな不安を忘れられるひとときを過ごすことがどれだけの幸せだろうかと思う。だから、私が彼らに大きな変化を起こせなくても、皆さんが笑顔で話をし、一息ついて、笑顔で「ありがとう」と言って帰っていことが本当に嬉しかったし幸せであった。

 

暮らしの中に目標ができる「場づくり」

 もう一つは、このような場を設けることで、生活の中に小さな目標を作ることができること。ボランティアに参加した人が、この村の住民を町(市街地)の賃貸住宅に移住させることについて、「確かに住む場所が狭い分、すべてのものが手の届くところにあって便利だ。しかし、ここにいる高齢者は、家に畑があって農作業をしつつ、近所づきあいをするという生活をずっとしてきた。その形(生活スタイル)を奪われた市街地での暮らしでは、生きていけないだろう」と話していた。

 きっと現在の仮設住宅生活でも長期に強いられる狭い居住空間で、生きる意味を見失う人がいるかもしれない。だから、このようなみんなで集まるきっかけとなる場を設けることで、「これに参加しよう!」と思い、明日を生きる張り合いが見いだせると思う。人は生きる意味を見失うと生活が崩れてしまう。小さくても日々何か目標があり、その達成に向かって生きているときが一番人間らしくある形だと思う。部外者だとしても、被災地に介入し人々の交流を絶やさぬよう機会を提供してくことが災害ボランティアとしてできる活動の一つだと学んだ。

 

思いでつながる人は楽しい、素敵だ

 それから、今回最も楽しかったのは、一緒にボランティアに参加した人たちとの交流だ。とにかくみんな明るくて、優しくて、一緒にいて楽しかった。一人一人参加するきっかけは違うけれど、ボランティアをしたいという思いは同じである。その思いでつながる人たちは本当に素敵な人ばかりだ。これは今まで3回災害ボランティアをしていて毎回感じることだ。これが、私が災害ボランティアにハマり、やめられない理由かもしれない。(守愛美/大学2年)

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「外から来る人の力」が奥能登では重要

 1月10日から1月12日にかけて能登のボランティアに参加し、能登半島北部の町野地区、金蔵地区、南志見地区に行ってきました。輪島市の中心市街地から車で40分ほど離れた山間地域で、昨年9月の豪雨による被害も受けた地域です。今回は仮設住宅に住まわれている方々と二地区で復興活動に取り組まれている方々にお会いし、様々なお話や思いをうかがいましたのでこの場で共有させていただきます。

 

1K4畳の仮設に2人。押入れに寝ている

 町野地区にある仮設住宅では60代の女性にお話を伺いました。お母様と2人で1K4畳半の部屋に豪雨災害の後から3か月以上住んでいます。お母様はダンボールベッドに、娘さんは押入れに布団を敷いて寝ていました。被害に遭った家は現在工事待ちだそうですが、大工さんの人手不足などの問題から、なかなか工事開始の目処がまだ見えていないそうです。「外は寒く、部屋の中で過ごすことが多いが、4畳半はとても狭く、二人で過ごすのは息苦しさを感じる」のだそうです。床冷え対策としてボランティアがマットを敷いており、私もやらせていただきました。

 

外から来てくれる、だけでエールになる。気に入ったら「Iターン」も

 続いて、海沿いの南志見地区で震災前からまちづくり(村おこし)に取り組まれている会社、奥能登元気プロジェクト代表(社長)の奥田和也さんにお話を伺いました。過疎化が進む奥能登地域の人・町・経済を元気にしたいという思いから、農産物・水産物・木材を使い、商品企画・開発から製造までを行うことで多種多様な人たちが知恵を出しながら、新たな創造の場をつくっています。奥田さんはそれだけでなく、地域の施工業者と協力しながら、被災を受けた建物の修繕・再建に携わっています。残りの人生を能登の復興から新しい能登の創造に時間を使いたいという思いで取り組まれており、そうした思いに大変感銘を受けました。そんな奥田さんがこれからの奥能登に必要だと考えるのは「外から来る人の力」だと言います。「地域の人も復興を精一杯頑張っているが〝外部から来てくれる〟それだけで地域の人へのエールとなるし、もしこの地域が気に入れば何か起業するなど、この地域を一緒に創り上げてもらえると嬉しい」とお話していました。

 

「今年こそ何かして、地区を盛り上げる」

 最後に金蔵地区で毎年8月16日に3万本のろうそくで集落を灯す「万燈会」を運営企画している、区長さんたちにお話をうかがいました。金蔵地区の歴史や今まで取り組まれてきたことなど、熱い思いに大変感銘を受けました。地区内の多くの住民は避難している中、区長さんたちはここに残り続け「今年こそ、何か新しい楽しいことをして、金蔵地区を盛り上げたい」と話しています。

 今回のボランティアを通して、奥能登では外から来る「よそ者」の力を必要としており、私たちがその「よそ者」となり、現地の人の声を伝えていく役割があるということです。

 

資材高騰、業者不足。でも「SDGs建築材料」でやりたい!

 私は昨年の3月に一度能登を訪れており、そこから10か月たった能登を見てきて、9月の豪雨による被害もあり、道路の復旧や建物の建設工事など復興にまだまだ時間がかかるという印象を受けました。資材高騰や人手不足などの問題を、どのように捉え、新しい突破口を考え、実践していくことが必要です。私は、建築士の見習いという立場ではありますが、たくさんの土砂や、取り壊しの際に出る瓦などを、「処分するもの」ではなく、「地域の貴重な資源」として捉え、ローコストで居心地の良い住まいをつくることができないか、今後考えていきたいと思っています。(村上茉鈴)

 

#ボラサポ共同募金会

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子どもたちに「仮設に住むつらさも聞いた」

 まず今回のボランティア活動に参加したきっかけはとても単純なものでした。最初は友達に誘われて自分は将来建築士になりたいと思っていて、その勉強のためのとても軽い気持ちでボランティアに参加しました。

 

建築士的興味。仮設という環境の弊害もある

 

 最初のボランティア活動では、仮設住宅にの窓にプチプチをはることでした。季節が冬ということもあって外での活動はなく主に室内で行える作業が主な活動でした。

 仮設住宅は簡素なもので窓からくる冷気を防ぐための作業でした。作業をしていく際に、窓全面にプチプチをはりたいという人と「一部分だけはらないでほしい」という人がいました。全面にはりたいという人は「向かいの仮設住宅の人から家の中が見えないほうがいい」という理由で、一部分だけはらないでほしいという人は自分の家があった場所を眺めるのが好きだという理由でした。

 やはり、知らない人に家の中を見られるというのはプライバシーの観点からあまりよくないもので仮設住宅の弊害というものを感じました。その次の日には別の仮設住宅の集落に行って、別の仮設住宅の窓にもプチプチを張りました。

 

昔は全校生徒1000人いたよ。いま40人

 

 その後子供たちの遊びに付き合い、その時におじいちゃんが話しかけてきて、そのおじいちゃんが小学生のころ(70年前)には、小学校の全校生徒が1000人いたという話を聞きました。しかし今では全校生徒が40人ほどという話を聞いて、過疎と災害の影響を特に感じた話でした。

 また、子供たちと話していく中で子供はとても正直なので、仮設住宅に住むつらさや普段の生活がとてもつまらなく感じているといった話がありました。しかし、子供たちはとても元気で逆に自分たちが元気をもらったように感じました。

 最後に、今だに仮設住宅の生活から抜け出せないのは沢山の理由があると思いました。震災から約一年たった今でも多くの倒壊した建物や傾いた建物があり、それは、この地の気候や、お金がない、現場の人手が足りていないなどの影響もあると思います。それらの大きな問題に対して僕たちのような学生ができることは「ないにも等しい」と考えます。

 しかし、ぼくたちのような学生だからこそ被災者の人たちに元気といったものをあげることができると思いました。

 能登のみなさん、ボランテイアの皆さん、誘ってくれた倉谷、一緒に行ってくれた伊吹ちゃんありがとうございます。次も予定が空いていたら行きますよ(笑)

高橋直希(佐野日大高校3年)

 

 

賃貸だった被災者は「仮設住宅の期限が1年」というとんでもない事態に抗議しよう!

 通常、応急仮設住宅は2年の期限なのですが、能登の被災地では「賃貸住宅や公営住宅に住んでいた人はは1年だけ」というとんでもないことを石川県がやっています。

 住宅再建への目処が立たない中、応急仮設住宅から退去を迫られることは基本的人権の保障に真っ向から背くものであり、とうてい容認することができません。

 そもそも奥能登には賃貸物件などありません。スゴイ役所ですね⁉

 

 以下は、私も賛同する「能登被災地の仮設住宅に関する検討会」からの要請です。

 

 私たちは、「一人ひとりが大事にされる災害復興法をつくる会」が2025年1月24日に行った3項目の提言(下記のURLを参照)を支持するとともに、その実現を政府、石川県に強く求めます。

【提言1】 石川県は、仮設住宅の入居期間について、被災前の居住形態が所有と賃借等の違いで区別をせず、等しく扱うよう運用を改めるべきである。

【提言2】 石川県は、インフラ被害による仮設住宅入居者には、インフラが復旧し居住可能な状態になるまで入居期間を延長するよう取り扱うべきである。

【提言3】 石川県は、令和5年能登半島地震の仮設住宅について、一日も早く、供与期間を1年延長することを決定し、それを公表するべきである。

 詳細な提言理由を含むPDF全文は以下のリンクで表示,ダウンロードが可能です。

https://hitorihitori.jp/wp-content/uploads/2025/01/911feb543aaecda19d383306d8ef2ebd.pdf

 

①みなさんの団体等の会員の方、関係者の方等に、この要請文を拡散して下さい。

②できれば団体名、個人名のいずれでも、印刷した提言を同封の上、日本国総理大臣、石川県知事にあてて、要請文をお送りください。この活動がもっとも効果が高いと思います。

〒 100-0014 東京都千代田区永田町2-3-1 首相官邸 日本国内閣総理大臣 石破 茂 様

〒 920-8580 石川県金沢市鞍月1丁目1番地 石川県戦略広報課 石川県知事 馳 浩 様

 以上よろしくお願いします。

 

能登被災地の仮設住宅に関する検討会(とりまとめ役:岡本祥浩、高林秀明、連絡調整役:遠州尋美)

問合せ先:mimi_enshu@mac.com <mailto:mimi_enshu@mac.com>

 

というわけで、とちぎボランティアネットワークもこれをやります。

ただ毎日過ごす日々。抱えた無力感、将来への不安。初めてボランティアをしてマイナス感情を払拭できた!

 

「それでも諦めない」という光・希望をボランティアに被災者に子供に見た

 

 被災者と同じ経験をしていなかったから共感ができなかった気がした。そんな私のような人間が、本当に話を受け止める資格があるのか。ただ「頷くしかできなかった自分」に無力さを感じた。

 それでも「同情が被災者の支えになる」ということ、何もかも復興していない逆境の中で「それでも、それでも諦めない」という一つの光、希望をボランティアや、被災者や、子供たちの笑顔から感じた。

 

いい大学、いい就職が良いとされる高校生の常識を壊してくれた。

 

 被災者、支援者それぞれ立つ土俵、抱えた不安の種類も違う。住む地域も、何もかも違うけれど同じ人間だから手をとってお互い支え会う。その笑顔に自分も励まされた。また励ますことができた自分に誇りを持てた。

 偏差値の高い大学に行き、安定した会社で働く、そんな社会のレールに乗るという僕ら高校生が抱えた世間の常識。良いとさせる生き方を壊してくれたとても良い経験だった。

 たくさん親に学費などで世話をかけた、それでいてただ毎日過ごす日々。抱えた無力感、将来への不安。初めてボランティアをしてみてマイナスな感情を払拭することができ、自分が役に立ち必要とされる輝ける場所、方法を見つけたことをとても嬉しく思う。

 

「遠慮しない方がいい」「素直に自分を表現すること」「たくさん笑うこと」ができていなかった。

 

 いろんな世代の方々と関わってみて、言葉遣い、礼儀を学んだ。

 話の広げ方、どんな聞き方でどういう接し方でどんな態度でとたくさん気を遣った。また遣って頂いたと思う。政治関係の話、お金の話が、ボランティアも被災者も話していた話題の一つに多かった。

 「遠慮はしない方がいい」ということ。「素直に自分を表現すること」「たくさん笑うこと」が当たり前だけどできてなかったと気づかされた。逆に言えばそれらができない環境、社会になりつあることを実感した。

 おすそわけ、横のつながりを久々にみた。コロナが流行り、SNSが普及して「見えない壁と距離があったんだ」と改めて感じた。

 2日目にもとやスーパーの店長さんの手作りカレーを食べた時にみんなを思う気持ちの味がした。思いやりの精神、食べて飲み込んで改めて自分の物にしようと思った。

 

まとめ。「拒絶されるかと思ったら、そうじゃなかった」

 

 誘ってくれた倉谷ありがとう。そしてボランティアのみなさんへ、優しく丁寧にいろいろなことを教えて頂きありがとうございました。僕なりに見よう見まねで頑張れたと思います。また能登のみなさんへ。僕は正直、拒絶されるかと思ってそんな覚悟で行きました。なぜなら僕らは同情しかできないから。けれども実際に行ってみて全然違いました。受け入れてくださった、「楽しんでって」と言ってくださった、そんな温かさに心が救われた気がします。1/24~26の短い間でしたがお世話になりました。もちろん僕もまた今度行きますよ(笑) 

平澤伊吹(佐野日大高校3年)

 

高校3年この時期だし、人生初のボランティア

 僕は今高校3年生です。今回僕の友達2人誘って3人で応募しました。まず今回ボランティアに参加させていただいた経緯を話したいと思います。理由は単純ただ気になったからです。高校3年生のこの時期は自由登校期間で時間があるので、せっかくだしやったことないことをしてみたいと思い参加を決意しました。

 

「窓の向こうは自宅があった場所」。そこだけ貼らずに残してきた

 

 1月25日。

 この日が人生初ボランティア。午前中は指定されたお宅(仮設住宅)に伺って、窓の大きさに合わせて包装材(プチプチ)をはりました。なぜなら冷気を防いで室温を暖かく保つためです。その作業中に一つとても印象に残ったエピソードがあるのでご紹介します。

 高齢の夫婦二人暮らしのお宅を訪問した時のことです。包装材をはろうとしたら1部分だけはらずに残してほしいと言われました。

「おじいちゃんがここからみえる景色が好きでねぇ」と。

 窓の向こうには、以前お二人が暮らしていた家があったそうです。地震で全壊して、今は何もないその土地を日々眺めて暮らしておられる。どういう想いで眺めているのか…僕にもその家の思い出が見えてくるような気がしました。

 仮設住宅に向かう車中で数々の全壊した家を見ました。そのひとつひとつに家族の思い出が詰まっていたはずです。地震で失ったものは「家」という建物だけでないということをまざまざと感じました。

 

子どもと年齢近い僕たちの仕事は「鬼ごっこ」

 

 1月26日午前。

 この日の活動は午前まで。集会所でおばあちゃんたちの足湯の手伝いをしていると、小学生の子供たちが顔を出したので、一緒に鬼ごっこをしました。ボランティアというと高齢者への活動がメインというふうに思われるし、実際僕もそう思っていたけど、こういう子供たちとの活動という目的もあるなと感じました。年齢の近い僕たちだからこそできることがあるんじゃないかと思いました。

 

「やりたい」から「やろう」までは時間がかかった。

が「やろう」から「やる」まではスグでした。

 

 最後に。たった1日半の活動の中にここには書ききれないほどの学びや感情がありました。

 僕は震災直後からボランティア活動をされてる人々の姿をみて僕もボランティアをやりたいという思いはありました。ただどうすればいいのかという活動への第一歩をなかなか踏み出さずにいました(今回はたまたま時間があったので決断できましたが)。実際どうすれば良いのかわからなかったからです。

 まず初めに市役所行き、その後社会福祉協議会に行くように勧められました。社会福祉協議会では実際のボランティア活動について詳しく教えてもらうことができ、そこからはスムーズでした。「やりたい」から「やろう」までは時間がかかったけど「やろう」から「やる」までは時間がかかりませんでした。あの時一歩を踏み出さなければ貴重な経験ができなかったと思います。

 能登のみなさん、ボランティアのみなさん、学校の先生方、一緒に行ってくれた友達、一生に残る貴重な経験ができました。ありがとうございます。もちろんまた行きますよ(笑) 倉谷悠太(佐野日大付属高校3年)

 

【能登ボラふり返り】 惨事便乗の復興

 12/28、今年最後の能登ボラだった。いつもお世話になっている町野町金蔵地区で餅つき。住民の皆さん20人位と栃ボラ17人。

 

集落95人中、13人残り。他は2次避難

 

 金蔵集落は元は53軒95人の山上の集落。室町時代から溜池で、天水のみで36町の棚田を作ってきた。1/1の地震で全壊・半壊家屋35件と棚田の亀裂、町野への道路不通、11個あった溜池は3つ残して使えなくなった。今年の作付けは5反しかてきなくなった。

 

「戻って来たい人が戻れるように」が集落(コミュニティ)の基本。

 

 2月下旬ここに初めて来たとき区長の井池さんは、仮設住宅を集落内に作ることを市に要望していた。断水で、集落に残っているのは13人だけ、市の炊き出しは毎日1回の弁当配布がやっとはじまった頃だった。隣の地区は全村避難をしていたが金蔵はそうしなかった。「集落は人がいることで維持される、戻りたい人が戻って来られるようにするのが大切」という。コミュニティを壊さない、を教訓にしてきたのが阪神淡路大震災からの30年だった。

 

仮設も集落外、復興住宅も集落外。コミュニティが壊される

 

 区長さんたちは「旧金蔵小跡地を仮設住宅用地に」と地権者に交渉し、条件整備して市と交渉したが、輪島市は町野町中心地域に仮設を2か所作った。

 6月、仮設ができはじめ集落に人が戻ってきた。金蔵は66人になった。といっても、うち21人は6キロ離れた仮設に住んでいる。

 9/21能登豪雨。地震で崩れ亀裂がはいっていた山は、立木ごと崩れ小河川の橋を塞ぎ平地の町野は大水害になった。仮設のある町野地区と金蔵は地震のときの3倍の山崩れで再び通行不能。断水と通信不能、さらに残った溜池3つも決壊した。

 10月「復興住宅を金蔵に」と要望したものの、またも市は町野町中心地区に建てるという。「住民には一度も意見をきくこともなく」と区長さん。

 

ショックドクトリン! 惨事便乗政策。…反対署名募集中!!

 

 何故こんなに頑ななのかと聞くと「コンパクトシティ構想」が財務省、総務省・国土交通省にあるからで、1軒の家のために道路維持し電気通すのは無駄、過疎地域は切り捨てていくという国の発想=政策がある。これでは財政力の弱い過疎地域の自治体はしたがわざるを得ない。

 これはショック・ドクトリン(惨事便乗政策)だろう。

 物言わぬ風土の能登の高齢者。山紫水明の地、棚田や集落の人と離れてそう長く元気でいられないだろう。6キロはいつでも行ける距離ではない。足で歩く畑に出る顔見知りと話すという日常を取り戻すのが田舎の復興の基本だ。国の都合でコミュニティ壊すのはやめてほしい。

 金蔵集落の人たちは要望書の署名を集めている。もちろん栃木のボランティアもみんなで署名した。

 復興住宅の「復興」とは何かが、問われている。(矢野正広)

能登ボラふり返り。17年ペーパードライバーの私が一番変化したかも

無力を痛感。「スマホと運転だ」
 最初に能登を訪れたのは2024年3月末。災害ボランティアへの参加は初めてでした。活動内容は「家の片付け」「災害ゴミの分別」「炊き出し」「足湯」「御用聞き」など多岐にわたり、参加者は見知らぬ土地でスマホのナビを使い、現地で借りた車を運転して活動場所へ移動していました。しかし当時の私はスマホを持っておらず、ペーパードライバー(17年!)でもあったため、後部座席に座ったまま現地に到着し、作業を手伝うことしかできませんでした。
 帰宅後、自分の無力さを痛感し、「年内にスマホを購入し、車を運転できるようになる」という目標を掲げました。翌4月には2度目の参加を申し込み、それまでにスマホを購入しました。前回、被災者から災害ゴミの捨て方について質問を受けた経験を踏まえ、今回は市町ごとの分別ルールや運搬方法を調査しました。例えば、「道路沿いに分別して置けば業者が回収する地域」や「仮置き場まで自ら運ぶ必要がある地域」、さらには「特定の日にしか捨てられない地域」など、地域ごとに異なる規定があることが分かりました。ルールを守らなければ業者が回収せず、被災者が後処理を担わされるリスクもあるため、ボランティア側が主体的に情報を集め、対応することの重要性を感じました。
 
 チームのコーディネートも、ハイエースの運転もした
 その後も5月、6月と月1回のペースで能登を訪れ、活動を続けました。この頃、Vネットで人手が足りないと聞き、調整役であるコーディネーターを任されることになりました。協力団体との連絡、タイムスケジュールの管理、初参加者への配慮など、多岐にわたる業務の大変さを実感しました。震災から半年が経とうとしていましたが、まだ手つかずの家も多く、室内に繁殖したカビが印象に残っています。
 7月の転職を機に、しばらく能登へ行けない時期が続きましたが、その間に車を運転する準備を進めました。そして12月末、半年ぶりに能登を訪れました。今回は宇都宮~能登間の一部区間で車(ハイエース)を運転し、現地では車を使用して物資の調達・資材運搬などの手伝いもできました。少しでも皆さんの役に立てたと思うと嬉しかったです。
 久しぶりに訪れた能登は、海岸沿いの迂回路が整備され、仮設住宅が完成しているなど、復旧の進展を感じさせる一方、9月の水害でさらに被害を受けた場所もありました。
 この1年は私にとって大きな変化の年でした。そのきっかけを与えてくれた能登と、そこで出会った方々に感謝しています。これからも時間を作って能登を訪れ、少しでも復旧・復興に貢献できればと思っています。(内藤隆夫)

「 俺ら毎日やることねえんだ、魚はいっぱいいるんだけど」。

「ボラセンなく」復旧作業を頼めない人もいた

 

 4月からとちぎ ボランティアネットワークに入会し、輪島市 町野町で復旧活動に参加している。主な作業は倒壊した納屋からの器具の搬出、家屋からは家財道具の取り出し、また耕作ができなくなった水田の草刈り。ソフト面では集会所で足湯を行い、被災者のくつろぎを提供し、つぶやきを聞いてきた。

 現地では日本海沿いの国道249号が珠洲市に入ったところで通行止めのまま、集落内の道路は 手付かずの状態が残っている。 作付ができない水田には9月の集中豪雨が重なり、砂利、土砂、流木に覆われ、途方に暮れる状況だ。現場の活動はボランティアが足りず、私たちも頼まれた作業を完了できずに途中で切り上げざるを得ない状況が多々ある。

 また被災者側でも復旧してもらう作業を、どこへ頼んで良いかわからない人もいる。そんな状況なのでボランティア側が作業が必要な場所(家など)を探し、住民と調整して、それから復旧活動するという現実もあった。

 

5年前「栃木の水害も迅速にボラセン」できた。今年の山形水害でも。ここは??

 

 かつて大きな災害があった栃木県内の被災地の復旧活動を振り返ると、鹿沼、栃木、 佐野、宇都宮等を襲った5年前の台風19号の大洪水では、各市の社会福祉協議会によるボランティアセンターが早急に立ち上がり、 1人で参加する多くのボランティアを受け入れ、小グループに分けて活動先と内容を説明し、準備してあるスコップや一輪車などを持たせて現地・現場へ送り込んでいた。

  現にこの夏(2024年8月)、 大雨による最上川の氾濫があった山形県の鮭川村、戸沢村に行った時は、被災間もない 8月7日には、県と市の村の職員を配したボランティアセンターが立ち上がっていて、「本日は 50人のボランティア が参加して、〇〇の現場に向かっています。もう、今日の予定は足りてますね」とのこと。 道具・機材も揃っており、感動したところでした。

 

 身も心も 折れてしまう前に 船着場を整備してやらないと・・・

 

 11月2日の朝日新聞社説に輪島市町野町や南志見(なじみ)地区などでは多数のボランティアが必要だが、中心部から遠く、社協に多くを期待できないので地元有志で「まちなじボラセン」が活動している記事があった。しかしこれだけでは復旧活動は進まない。いち早く立ち上げたあとは、一人でも多くのボランティアを受け入れること、復旧の要望を取り上げること、それをマッチングして機材・道具を持たせて活動する体制をいち早く作ることが必要だ。

  新聞・テレビなどの報道機関も現状や活動を伝えることも大事だが、復旧の速度を早めるこれらの体制作りの必要性を節に訴えてほしい。

 ある漁師のつぶやきが聞こえてきた。

「 俺ら毎日やることねえんだ、魚はいっぱいいるんだけど」。

 身も心も 折れてしまう前に 船着場を整備してやらないと・・・と思い能登半島、曾々木の海岸を後にした。( 2024年11月/小林幹広) 

 

つぶやき2024/12/6

80代女性 〇(「まけないぞう作りの)張り紙を見て隣の人を誘ってきた。地震のことを考えると気が滅入るが、こうやって外から来てくれた人に話をすると気が軽くなる。 ・週に一回デイサービス(町野)に通っている。そこでも知り合いと話したり塗り絵をしたりして気晴らしになっている。 ・地震の後は体調がよくなかったが、生活が落ち着いてきたら体調もよくなってきた。 〇感想:活気がありよくお話される方だった。気が沈むとネガティブなことも話してくれた。私たちと話すことで少しでも気分転換になればいいと思う

 

40代女性

〇この集会場はふだん住民に解放されていて手芸が趣味の人が集まっていることもある。O出さんはこの頃外に出てくることも減っていたけど、今日は来ているからよかった。 ・こうやって教えてくれる、まけないぞうがいるのはいいね。これまで正月には親戚の家でうすときねで餅をついていた。(昨年の)地震直後は餅があったので役立った。伯父さんの家は全壊で取り壊してしまったのでもう餅つきはできない。 ・私の家では餅には豆、あわ、きびを混ぜる。あんこを入れてまとめる。お雑煮の場合、丸もちを焼かずに昆布だしの汁に生の岩ノリをのせる。 〇感想:比較的若い人からの話を聞けた。近所の高齢者のことを見守ってくれて心強いと思う。餅つきが伝統だったのにできなくなってしまって残念

 

M田さん 70代女性 〇地震の直後はみんな「家を解体して立て直す」と言っていたけど、この頃には言わなくなった。この先の見通しなんて全然立たないのに…。(足湯は)足がポカポカしてます。温まった。 〇感想:優しそうな穏やかな雰囲気で口数の少ない方でしたが、ぽつぽつと話してくださった。とても素敵な発言。なんとも返事のしようがなく聞いていた。足湯の後はまけないぞう作りをしばらく見学していた。楽しんでおられたようでよかった。

 

K下さん 70代女性 〇畑で、店で売っているような野菜は何でも作っていて今まで野菜なんて買ったことがなかった。この水害で畑に土砂が入ってしまって秋の野菜が全部だめになった。里芋だけは少しできた。 ・今日小さい芋を洗ったりしてきた。 ・畑をやっていると楽しくてほかに何も考えないでよい。 ・地震では何とかなったが水害があるとは思わなかった。 ・仮設住宅は春先が寒かったので冬の寒さが心配。 〇感想:→近所の人に声をかけてもらい参加、足湯の後まけないそう作りにも参加していた。笑顔で語ってくださった。足湯や手芸で気晴らしができたらいいなと思った。 H江さん 70代女性 〇納屋の窓が割れていたのをこの間ボランティアさんにふさいでもらった。今日は足湯をやったらまけないぞうを作る。このセーターも昔自分で編んだもの。 〇感想:本人がモノづくりに参加する とても好評。

 

K屋さん 80代女性

若い人に足湯をやってもらえてうれしい。深見で生まれ、裏山に嫁いだ。避難所には1か月になる。(9月の)水害で来た。仮設はまだ当たらない。

〇感想:あまりボランティアは来てない様子

 

 

 

能登ボラ3月まで月2回行きます>>>こちら

まけないぞう作りスタート! ぞうが伝える被災地の責任

 

まもなく1年。「テレビ見ることしかない」

 

 元旦に起きた能登半島地震から一年を迎えようとしている。

 3月までは名古屋のレスキューストックヤードに加わり穴水町に入って被災地支援活動をやっていたが、その後「輪島市町野町はほとんどボランティアがいない」と聞き、現在に至っている。3月に活動開始したときまず驚いたのは、全く手付かず状態で見放されていると感じた。それが今も続いている。

 8月頃には仮設の生活に落ち着き始め、玄関には切花など飾り「もうここで暮らし始めます」と言うメッセージを感じた。

 いままでの暮らしは、広い屋敷、畑には食べる分の野菜があった。一日することは一杯あった。季節ごとの畑仕事や冠婚葬祭。地震はそんな普通の暮らしをみんな奪ってしまった。その上、9月の水害で畑も流れ、寄り合って語り合う集落も寸断された。狭い仮設の中でテレビを見ることしかない。

 そこで「足湯で語り合おう、しゃべってもらおう」とやり始めたら意外に皆さんしゃべりたいことが良くわかった。知らないもの同士少しタッチして世間話が始まる。若い子との対面に話が弾む。

「ちょっと待ってな」と自宅にもどりアケビや漬物を持って来てくださる。ボランティア初めての学生が多く、大歓迎を受けた。自分たちが元気を貰ったとの感想が多かった。

 

「あんたー違うがねー」。する側・される側がない会話

 

 閉じこもりがちな冬にもってこいの「まけないぞう」作りを12月から始めた。

寄付で集めたタオルを手縫いで「ぞう」の形にした壁掛けタオルだ。洋裁に得意な人も苦手な人も一緒に教えあいながら、お喋りしながらの様子は始めて良かったとつくづく感じた。

 まけないぞうを初めて作るボランティアメンバーだったのがなおさら良かった。「あんたー違うがねー」と言われながらこちらも真剣。ボランティアする側、される側をとっぱらい楽しい時間が共有できた。

 

被災地責任:被災者が次の(災害の)人に伝えること

 

 現地に入って思うのは暮らす人が諦めなのか、何でも受け入れる土地がらなのか、文句も言わず感謝しか言わないことだ。「遠いところに良くきてくれたね」。もう一年が経つのに今でもそういって労ってくれる。とても嬉しいことでもあるが。

「被災地(者)責任」という言葉を思い出した。被災者自身が体験したことを語らなければ次の災害に生かせない。地震を経験し避難先での生活、転々と住居を変わらず得なかったときの事、仮設の暮らしづらい間取りやオール電化の使いづらさなど語って欲しい。

 温暖化のいま毎年の水害・地震は、可能性「大」だ。災害が起きる度に「ボランティア自粛論」が出る。本当に残念だし、怒りさえ感じる。

「何とかならないのこの発言」。一日も早く沢山のボランティアが入って手伝いたい。足湯、片付け、まけないぞう作り、酒飲みなどやりながらこれから先を共に考える仲間になって行きたい。(菊池順子)

 

☆お願い

まけないぞう作りの新品のタオルを集めています(厚手ものがよい)。文字が入ってなく色付き、柄ものOKです。事務所にお電話下さい。また届けて下さるととても嬉しいです。(1本につき10円程度のカンパももらえるともっと嬉しいです)

028-678-3155 (事務所は日・月休み)

 

まけないぞうサイト

https://www.tochigivnet.com/ganbaroutochigi/utsunomiyadiy/%E3%81%BE%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%9E%E3%81%86-%E5%BE%A9%E8%88%88%E6%94%AF%E6%8F%B4%E3%82%BF%E3%82%AA%E3%83%AB/

道路わきに、静かに普通に斜めに崩れた家。「我慢してるんだなぁ」

 もっともっと人の手があればなぁ

 

 被害のあった地域に入ると 特に静かに感じた。道路脇に、静かに普通に斜めに崩れた家と、流れてきた 大木や残骸。これを毎日、目にしながら不便な生活を余儀なくされた人。そんな中でも暮らす人やお店の人の笑顔や穏やかさに、心の強さを感じた。

 もっともっと 人の手があればなあ。

 もっともっと 近くの人が行ってあげられればなあ。

 もっと早く元気に笑顔を増やせると思うのになあ、、、」と思いながら就寝。

 

「ほぼつぶれた家の屋根だった辺り」に上り 貴重品救出

 

 あさイチで現場近くの「ボランティア拠点」で朝礼。その日どこに何人向かい、何をするかが知らされているので、装備の準備ができます。 情報は大事です。

 壊れた家からの物品を探すために、「 ほぼ潰れた家の屋根だった辺り」に上り、釘の出た柱や、ずぶ濡れの畳、割れた瓦を取り除く人と、泥や残骸をスコップで掬っては 一輪車で運ぶ人に分かれ、 エンドレスの作業。雨だったら危険でできなかった 作業だと思いました。人数も必要です。

 午後は旅館に流れ込んだ泥の泥の除去作業。電気も水道も止まっているため、ポータブル電源で明かりを確保しての作業で、ひたすらスコップで水分を含む泥を入口付近に運び出していきます。人手がなければ話にならない 「10人ぐらい必要」の意味がよく分かりました。

 次の日の足湯ボランティア。 仮設住宅の敷地内にある集会場でカセットコンロでお湯を沸かし、足湯バケツに入ってもらいながらゆっくりとお話を伺う。仮設住宅での足湯は女性しかきませんでした。男性限定の「そば・うどん打ち教室」などがあったら楽しいのではと思いました。

 

慣れないオール電化、「我慢してるんだな」

 

 仮設はオール電化らしいのですが「前日、停電になった」と心配されていました。火事になったら周りに迷惑をかけるのでガスは使えないし・・・と、「一生懸命やってくれているので電力会社に電話するのも遠慮した」とのこと。「我慢してるんだな」と思いました。

 栃木から応援に行くのであれば、大学や高校の掲示板を利用させてもらい、 ボランティアを募るのはどうでしょう。(相場久美)

※写真:側溝の下は全部泥

#ボラサポ共同募金会 

 

 

能登ボラ、ほぼ毎週末ボ集>>>こちら

高校生④「復興にこんなに時間がかかると思いませんでした」

 11月8日から11月10日の3日間、能登半島ボランティアに参加しました。やったことは海楽荘という旅館の掃除や、ビニールハウスの骨組みの組み立て、現地の人にマッサージをしながら話を聞いたり、足湯の用意などをでした。

 

まだまだ復興に時間と人手が必要

 

 ボランティアに参加して思ったことは、まだまだ復興に時間や人手が必要だということです。海楽荘では一日中泥かきを行いましたが、男手約10人で行ってもトイレの泥出しさえ終わりませんでした。また移動などで崩れた家をみましたが、まだまだ立て直しや、取り壊しなどがされてない建物が大半でした。そして、足湯を行った際に現地の人と話す機会がありました。

 

「たくさんの人がボランティアに参加するべきだ」

 

「水汲みが大変で肩がとても凝っている。ボランティアの皆さんと話したり肩をほぐしてもらったりすると疲れが取れる」と言う人がたくさんいて、ボランティアとして現地の人たちに元気を与えることはとても大事なことだと実感しました。災害ボランティアは初めてでしたが、復興にこんなに時間がかかると思いませんでした。みんながもっと自分事だと思い、たくさんの人がボランティアに参加するべきだと思いました。

 現時点での能登半島は前に述べたように復興にまだまだ時間がかかる状態で、人手も足りません。なのでボランティアのことを多くの人に知ってもらい、呼びかけていき、数を増していくと、いち早く復興に向かうと思います。

 まずは、能登ボラに行った人は身近な知り合いに経験を伝えて、ボランティアを増やすことが必要です。(増子結生/星の杜高校2年)

ボランティアは一見、「変化を与える側」に見えますが、「逆」でした!

テレビと現実は違う衝撃

 

 この度初めて参加した高校二年生です。茨城県常陸大宮からの参加となり、能登までの長旅は慣れないものではありましたが、時間をかけて行った分、得たものが山ほどありました。 

 まず初めに、全く同じではありませんが、現地の方々がせざるを得ない生活を私自身も二晩三日と過ごしました。言葉や想像では理解できなかったものが、自分自身が体験することではじめて、実感するという形で認識できました。

 現地の移動中に移り行く景色は、本当に悲惨なものばかりで、衝撃を受けざるを得ない状態でした。テレビや何やらで見たことがあっても、現実を目の前にすると、見方が全く異なります。そんな中でも、私たちが携わった方々はとても明るくて、自分たちでできることを精一杯なさっていました。

 

「心の痛みで立ちあがれない人」ではなかった!

 

 私は、少し戸惑いを感じました。

 そこに訪れる前までは、その地域の方々は、心の痛みで立ち上がることも困難なのかなと思っていました。しかし、思い込みは良くないと、切実に思いました。

 足湯のボランティア活動では、住民の方々とお話しする機会が多くありました。そこでは、みなさんの地域の復興に対する確固たる意思を感じました。復興に向けた日々の生活から生まれた悩みや、私たちボランティア団体に対するお言葉など、みなさんの口から溢れた言葉は、家に帰っても何度も思い出されます。

 

助け合いの精神を次につないでいくのは私たちの役割だと、心から思う

 

 特に印象に残っている出来事の一つに、最終日の仮設住宅訪問があります。足湯にいらっしゃった方はお一人でしたが、元気いっぱいな子どもたちは何人もいました。そこではずっと、時間が許す限り子どもたちと遊んで過ごしました。

 みんな、同じでした。私の周りにいる子どもたちと、何も変わりませんでした。みんな明るくて、元気が有り余っていて、無邪気で、たくさん笑っていました。ボランティアというのは、一見、行った側が活動で地域に変化を与えるという大きなイメージをしがちですが、実際は全く逆で、心境をはじめとして、変化を与えられたのは私の方でした。

 みなさん一人一人がしっかりと、揺らぐことのない自分の信念を持ち、復興に力をつくしておられました。果たして私たちが地域の方々のために為し得たものは何だったのだろうかと考えました。きっと、私たちが為したものは大きな変化を与えるようなものではなく、遅効的なものだと思います。しかし、確実に私たちの軌跡はそこにあり、地域復興に携わったことは確かです。そして、それがボランティアなのだと思います。

 他にも、この能登での三日間が私にもたらしてくれた変化は多くありました。そこで学んだことは全て、ずっと、ずっと心に留めておくべきことだと思います。今回の経験をもとに、助け合いの精神を次につないでいくのは私たちの役割だと、心から思います。(菅野みどり/高校2年)

本当にやることが多くて大変だ!!「とにかく人手」

比較的細かい作業、人力しかない!

 

 11月8日から11月10日までの奥能登・週末ボランティアに参加した。活動日は土曜の全日と日曜の午前中。まずは海楽荘のトイレの泥だしをした。海楽荘は土砂崩れの被害にあったホテル兼自宅で、建物は崩れていないが、泥が溜まっていて取り出さなければ営業復帰ができない状態だった。

 建物を壊すわけではなく泥を取り出すという比較的繊細な作業なので、重機は思うように使えず人力でスコップを使う、というとにかく人手が要るような作業だった。これがまたひどい臭いで、現地の人によると、土砂崩れの被害にあった建物はどれだけ綺麗にしても臭いが完全になくならないそうだ。男性10人がかりで4、5時間かけてもトイレさえ作業を終わらすことはできなかった。本当にやることが多くて大変だと感じた。

 日曜日は農家のビニールハウスの骨組みを組み立てた。土曜日に引き続き、骨組みの組み立ても地道な作業だった。この作業を80歳を超えた男性と60〜70代男性(年齢を聞いていないので勝手な憶測)の2人でずっと行っているとのことで、被災地の復興にどれだけ時間がかかるかという被災地の大変さの一部分がわかった気がした。

 

「重機で建物壊すイメージ」じゃない。人の手の数。足湯も、肩もみも

 

 このボランティアに参加した理由としては、ずっと被災地でのボランティア活動に興味があったことと、これまで、大きな災害の被害にあったことがなく、被災地の状況を生身で感じたかったということがある。また、このボランティアは宇都宮から現地まで送迎バスが出ることや週末で完結していることなど、行きやすい条件だったので参加しようと思った。「人が足りていない」ということで、高校内で募集をかけて行くことにし、計10人を集めることができた。

 今回初めての被災地ボランティアに参加した身として一番に感じたことは、「とにかく人手が必要だ」ということだ。私のイメージとしては重機で建物を壊したり、泥や木を取り除いたりして復興しているものだと思っていたが、人の手でしかできない作業はたくさんあった。先ほど書いた泥だしのこともそうだが、足湯や肩揉みなど、被災地の方々の心身のケアも大事になってくる。そうすると、本当にたくさんの人手が必要になる。このボランティアは比較的参加しやすい内容だと思うし、私としては普段関わらないような世代の方々とお話しもできて、とても充実した内容であった。年齢も性別も関係なく、いずれ自分も被災するかもしれないというマインドを持ってたくさんの人が参加するべきだ。これからは、こういったボランティアで災害についての知識をつけることや、見知らぬ地に支援しに行くという行動の選択肢を持っていきたいと思った。(加藤謙・星の杜高校/16歳)

「日本中から応援しているから、くじけないで!」と伝えに

 高校男子10人と初・能登ボラ!

 

 はじめて、災害救援ボランティアに参加しました。

 能登にもはじめて、やっと来ました。今年、年明け早々の地震から、SNSなどでずっと見てた地域を、実際に目の当たりにして、改めてショックでした。地震から10か月以上、豪雨災害から1か月半たっているのに、まだまだ生々しい被害の爪痕に、言葉が見つかりませんでした。

 今回のメンバーは、男子高校生10人と成人男性4人、成人女性わたし含めて2人とわたしの娘の女子高校生1人の17人でした。男性陣は主に泥出しと、パイプハウス建てをしていました。みんな泥だらけでがんばっていました。高校生の若い元気パワーは、場を明るくしてくれていました。

 

「来てくれるだけで、忘れられてないんだ、と感じる」

 わたしは今回、足湯ボランティアを担当させていただきました。足湯にいらっしゃった方々とお話すると、みなさん、遠くからありがとうねー。と、おっしゃってくださり、胸がいっぱいになりました。「来てくれるだけで、忘れられてないんだと感じれて嬉しい」という言葉に、わたしが救われた気がします。

 支援のかたちはいろいろだとおもうし「できる人が、できるときに、できることをしたらよい」と本当に思います。行きたくても、身動きがとれない人のほうが多いと思うし、自分がいいなと思う支援団体に、活動支援金というかたちで想いを託すのも、被災地をたすける大きな力だとおもいます。同時に、タイミングをつくることができたら、関心をもっている方が、ひとりでも多く、現地に行けたら!と、強くかんじました。

 

4年前の茨城に水害で「いちごハウス12棟」水没。

 わたしは、茨城県のいちご農家で、2019年、豪雨災害に遭いました。ハウス12棟と直売所が、水没しました。周りのたくさんの方々に助けていただいて復活し、今があります。自分たちだけでは、気持ちがもたなかったとおもいます。

 日本全国いつどこでなにが起こるかわかりません。いま被害に遭われている方々に、日本中から応援しているから、くじけないで!と伝えられたらと、切におもいます。そのためにいろんなところで、いろんな形で、あたたかい支援が続くこと。その輪に、より多くの人が関われたら素敵だなと、心から願っています。

 今後、わたしは、わたしの周りの人に、ほんの一部ではあっても、わたしが見た、感じた、触れあった、今の能登を伝えたいとおもいます。日本中で、つらい現状も、明るいニュースも、もっともっと能登の話題をみる機会が増えてほしいとおもいます。

 貴重な経験をありがとうございました。(菅野久美子)

>>能登ボラ募集 https://www.tochigivnet.com/

 

「どうか皆さま、能登を助けてください」

「現実は無いことだらけになったわいね」

 

 地震と水害で大きく変わってしまった町。 ふと夜空を見上げると見覚えのある変わっていない綺麗な星空。ボランティアに来て町野町の夜空を見た方々は思わず「うわー見て綺麗な星空、地球って丸いね」と実感し、写メや動画撮影。「こんな綺麗な星空見たことない!」

 寒いことも時間も忘れ見てしまいます。プラネタリウムで見ているような錯覚してしまうような星空、見ていると日頃の疲れが癒される気分になります。

「便利な場所は理想やけど、現実は無いことだらけになったわいね」

「心知れた人々の顔を見るだけで安心するわいね」

 息子さん、娘さんが「一緒に暮らそうと迎えに来てくれたわいね」「暮らせたら嬉しいわいね」と笑み、凛とした表情になり「住み慣れた町野がいいげわ、自分でやれるところまで、此処におりたいげわ」と子供たちに伝えたという。目に覚悟を決めているように感じました。

 

「何年ぶりに能登」。5月なのに、復興の音が聞こえない静かな町。

 私は5月下旬、初めて町野町へのボランティア活動に参加しました。夜行できた翌朝、衝撃的な家屋倒壊、崩れたはげ山、応急措置の道路を見て、言葉では表現できない目の前の現実に、涙を越えた悲しみ。いざ現地に来て驚いたのは、町に復興の音が聞こえない静かな町。元旦から倒壊し放置されたままの状態。

「この場所が好きねんわ」と復興が進まないけど、1人1人が力強く生きる背中を感じました。

 偶然にも、私はこの町野町で生まれ 高校卒業まで暮らしていました。

「何年ぶりに能登へ」。どんな言葉をかけて良いのか不安でした。町野の中心、もとやスーパーに一時の癒しを求めに人が集まり、お互いの情報交換をしたりしています。「炊き出し」は皆さんに笑顔と元気を与えている。ボランティアの力は凄いと初めて見てありがたいとおもいました。

 

「有難いわ。ボランティアの人のお陰やわいね」

 地震後「この町は何も変わらんわいね」。「この先、家を壊して、町から人が出て行く人が多いわいね」。「どんだけの人が残るがかな?」。「色んなボランティアの人たちが遠い所から来てくれて、何でもボランティアの人に助けてもろとるげわ」。「有難いわ。ボランティアの人のお陰やわいね」。

 9月の水害で、地震の時より大変な状況になってしまい、住民の皆さんを見ると、残ったみんなで助け合って前向きに! と思えるような悟ったような明るい強い絆が伝わってきます。 水害後ボランティアの人は前来た時より見かけますが、当日作業用バケツ、スコップが沢山有り、まだまだ人が足りないです。

どうか皆さま、能登を助けてください。

 

9月水害。「朝9時、仮設も危険やぞ!」と復旧作業員が叫ぶ

 南志見(なじみ)地区を初めて訪れ、町野からたどり着くまでの道のりの景色を見て、「この危険な道を日々住民の方々は通り生活している、危険すぎる!」

 水害当日の話しを聞きました。「朝9時頃大雨なり、復旧作業員が仮設住宅前で大声で、此処は危険やぞ! と叫び第一仮設集会所に行こう! 車に乗って! と作業員は何往復もしてくれたげわ」「夕方雨が落ち着いたさかいに第2仮設住宅の家に戻ったげわいね。本当にありがたいわいね」

 皆さんのお話しが途切れず足湯をしながら会話を終わるタイミングが何か申し訳ない気持ちになり、またお話が聞けたらとおもいました。( aiko )

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ホテル転々「二次避難はコミュニティを壊す」と学んでない政府

 宇都宮から車で約 9 時間かけて能登半島の山間の地域にある私たちが今回泊まる集会所に到着した。その時にはすでに深夜 1 時を回っていた。

 

川沿いの崖に建つ家は、基礎の下がない。

 翌日、朝ご飯を食べ、いよいよ被害が大きいと言われている、中心部のもとやスーパー近辺に向かった。そこに行くまでは「地震から約 11 か月もたち、豪雨から約1か月半立っているので、復興はある程度進んでいるのでは」と思っていた。しかしそう考えた私は、車に乗り道中を見ていく中ですぐに考えが甘かったと後悔した。想像をはるかに超えていた。川沿いの崖の家は、基礎部分の土砂が抜け落ちている。大木が散乱した田畑、土砂崩れで埋もれた家々、一階部分が崩れ落ち、あたかも二階建ての家が一階建てのようになった家々。。。言葉を失った。

 

「津波と同じだ」

 そうこうしているうちに中心部のスーパーに到着すると、被害の全容を明確に知ることができた。地震で多くの家屋が崩れ、そこに豪雨による河川の氾濫によって土砂が流入したのが。

 この状況は、東日本大震災の津波のようなものと直感的に感じた。津波も同じように、地震の後に、土砂を巻き込んで海水が流入する。しかし、今回の複合災害が地震と津波の複合災害と決定的に異なるのは、地震と豪雨は切り離された関係であり、その二つの災害がたまたま同時期に起こってしまったことにある。そこがこの災害のとても悲惨な部分であると感じた。

 

「地震⇒ヘリ、⇒2次避難所⇒ホテル転々、⇒能登仮設に戻る」

 今回のボランティアでは、家屋内の地震で崩れ落ちた土壁の清掃と足湯ボランティアをした。特に、足湯ボランティアが印象に残っている。この地区は地震の仮設住宅があるものの、9月の豪雨で新たに避難してきた人たちがいた。子供3人と明るくふるまってくれた5人家族。一人で仮設住宅で暮らす年配の人、様々な人が足湯を利用してくれた。

 「足湯をしながら、手や肩のマッサージを行い、その中で話をし、心理的にも肉体的にも、疲れを取ってもらおう」という活動だ。多くの被災者と話ができた。共通していたのは「地震で被災し、ヘリで石川県外へと避難し、同じ集落の人と離れ離れの中で生活し、避難所となっているホテルを転々としながら、仮設住宅ができたため、また能登半島に戻ってきた」ということだった。

 

「転居は、コミュニティを破壊する」と、学んでない政府!

 私はここから、政府に対する疑念を持った。東日本大震災でも「被災前の近隣住民と同じ避難所に行けない」という問題があったにも関わらず、その教訓を生かし切れていないからだ。近隣住民などの知り合い(コミュニティ)がいなければ、その避難所で新たな「知り合い」を作らなければいけなくなり、年配の人にとってはそれはとても体力の使うことであり、困難を極めることは確かだ。

 最後に、今回初めてボランティアに参加してみて、まだまだ被災地には問題を抱えていることを肌で実感でき、これからも能登に目を向け支援していきたいと思う。(相原光/宇大国際2年)

能登ボラ、年内毎週、1-3月は、月2回。ボランティア大募集

年内は、毎週末ボランティア募集してます。水害対応のため、雪降る前になんとかしたいですね。1月からは月2回の能登行きです。

 11月15日から人がいませんのでぜひボランティア応募を。

募集要項・申込>>>こちら

音楽セラピー。「自分は大丈夫だと思っていたけど、疲れてたことに気づいた、ありがとう」

 10/25・26・27と能登へ行き、4つの集会所で、ピアニストの岡倉ゆかりさんと共に音楽セラピーを行いました。

 各集会所は全てセットリストが違っていましたが、どこの集会所でも一曲目は美空ひばりさんの「雨燦々」でした。この曲は誰もが知っている曲で、歌が始まると涙を目に浮べる方も多かったです。

「1曲目で泣いたの初めて」「最初の「あ」だけで泣いてしまった」と、皆さん話していました。

 皆さんから直接お話を聞いたわけではありませんでしたが、その様子を見ていて、これまでの生活がどれだけ辛く、厳しいものだったのかと考えさせられた時間でした。

 特に印象的だったのは開始時間30分前に会場に来てくださった女性。この方は「大変なこともあるけど、私は被害も少なくて助けてくれる人も多いので感謝しかない」と終始笑顔で話されていました。

 しかし、音楽セラピーが終わったあとには、「自分は大丈夫だと思っていたけど、疲れてたということに気づいた、ありがとう」と、肩の力が抜けたご様子で「今日、これて良かった」と仰っていました。

 足湯だったら、こんな「つぶやき」はなかったかもしれません。足湯は足湯の良さが、音楽には「音楽の良さ」があるんだと思いました。今回のタイミングで、音楽セラピーを開催できたことを光栄に思います。

 その他にも

「こんなに声を出したのは80年振り」

「歌は好きなのに歌う機会が最近はなくなっていた」・・・

 など、皆さん音楽を楽しんでくださいました。それぞれの思い出の曲や、それぞれの想いが混じりあって、言葉にできない尊い時間でした。

 自分にできることは本当に少なく、能登へ行っても何もできていないかもしれません。皆さんと足湯を通してお話する、音楽セラピーを通して時間と音を共有する、たったこれだけかもしれませんが、またあえてよかったと泣いて喜んでくださる方が居る能登へまた、行きたいと思います。(森満里奈)

知ってる人、知ってる場所が水害。「あの人は?、あの人も・・・」

現地と打合せした午後。洪水

 

 3回目の能登に行ってきました。

1回目は1/1から半年たった6月末

2回目は9月2週目。

3回目は10月末。 9/21の水害の後、今回初めての能登半島。9/21は、たまたま午前中に現地の人とLINEをつないでもらっていて、その日の午後に大雨が…。被災状況のご連絡をいただきながら、あの人はご無事なんだろうか、あの方は?あの方も、どうかご無事で。と、願いながらテレビを見ていました。

 

音楽イベント、肩の力が抜ける時間に

 今回の水害は、地震から半年たっても景観が変わらないところにあった豪雨だったために地震の時に崩れていた土砂・木などが流れて、ダムになって、ダムが決壊して、これだけの大きな被害になってしまったと聞いています。現地の人から「地震の時はこうだったけど、今回はこんなに動いてくれない」という国の救助活動の現状を聞いて言葉が出ませんでした。

 今回、私の能登での活動は音楽セラピー&ミニライブイベントの開催。音楽の力は、、、偉大ですね。音を共有して、歌を聴いて、声を出すことで心にアクセスできるんですね。奥能登の人たちにとって、ちょっとでも、その場だけでも、肩の力が抜けるような優しい時間になっていたら嬉しいと願うばかりです。

 リピートで来てくれる方、昨日良かったよって朝会いに来てくれる方、行けてないけど素敵な音が聞こえてきたと感想を伝えてくれる方、こんなに声出すの80年振りと綺麗な歌声を聞かせてくれる方、自分疲れてたって気づけたよって教えてくれた方。

 

無事だった人も、そうでない、会えない人も

 前回足湯でお会いした人とは、ご無事でいてくれて、また会えてよかったとハグしながら2人で泣いてしまったり、何度もお世話になった宿のお母さんとお話できたり。とても貴重な時間を過ごすことができました。

 「なんでボランティアに行くんだろう」と上手い回答が見つからないけど、また皆さんに会いに行きたいな。今回は、言葉にできないような気持ちがぐるぐるしていて整理できていないんですが、迷いながらも現地に足を運べて、音楽セラピーに携われて良かったです。(森満里奈さんFacebookより転載)

毎週末・能登ボラ>>こちら

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10/12-13 町野 9月豪雨で被災されたお宅から家具搬出、泥出しの活動

 町野の被災されたお宅へ10人で入りました。家は裏手の山から押し寄せた多量の流木の泥流で20メートルほど離れて建っていた別棟が直撃され、母屋のすぐ脇まで流されていました。

 1月震災後、リフォーム中だった母屋は流木の直撃は免れたものの、内部は泥に覆われ、母屋の周囲も泥が脛(すね)まで達する深さ。家に入ることもままならない状態でした。

 脛まで潜るぬかるみの中、長靴の足を交互に引き抜きながら窓の所まで歩き、そこに置いてあるイスに乗って窓から室内に入るという感じです。

「母屋のリフォームを再開したい」という家主さんの要望に応えるため、家の中の被災家具類運び出し、室内の泥除去と畳の搬出をしました(10人はここまで)。私たちの帰還後、最終的に床の清掃を行う段取りです。

 まずは家屋周辺に滞留している泥をなんとかしなければなりません。膨大な量の泥をどうにすればいいか思案している時、本業が土建業の現場監督の渡辺さんがスコップで溝を掘り始めていました。

 敷地は凹凸があるものの面している道路に向かってやや下り傾斜、気が付くと皆がほぼ一列に並びスコップやテミ(手箕)で泥を順繰りに掻き流し始め、ほんのわずかな流れではあるものの一本の泥流が出来ました。その内、誰かの発案で泥流の起点を移して泥流し作業を継続する事約30分で次第に地面が露出。そこにベニヤ板を敷いて家具搬出路が完成、午前中にはその通路を使い家具類、及び泥と水で重くなった畳16枚を無事搬出しました。

 午後は、室内の泥をバケツリレーで外に運び出す作業。私たちは運ぶ作業を受け持ち家の中に1人、外に9人が並んで泥バケツを外に搬出しながら空になったバケツを家の中に戻すの繰り返し。6個のバケツで約2時間、泥の除去が進みようやく床が見えてきした。

 ここでは最も体力の要りそうな最後尾で泥を捨てる作業を、一人でやり切った祖母井さんというヒーローが生まれました。捨てた泥に膝まで浸かりながらも明るく最後まで体を張って頑張ってくれました。

 家具搬出と泥出し、という水害では当たり前の作業ですが、現場の状況は千差万別。この日も泥の池を前にマニュアルもないなか作業にとりかかり、各々が目標に向かって協力して行動した結果、いくつものハードルを乗り越える事ができました。

 災害ボランティア活動に限らないですが、マニュアルがなくてもこうした小さな工夫をみんなで協力しながら積み重ねて行くことでチームワークが生まれ、大きな成果につながる、ということを改めて実感できた週末でした。一緒に活動して頂いた皆様に改めて感謝致します。有難うございました。(くにい)

 ボランティア全く足りないので一緒に行きましょう>>こちら

 

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能登ボラ、人がいません! 水害行く人募集

 

  

週末の 能登水害ボランティア、人が全然いません。

行ったボランティアが4人で記者会見したのに、ゼロ。

毎週末金、バスかワゴンで行きます。皆さんぜひ参加を!

ようやく立ち直って来たのにまた水害。やる気なくなることに連続です。応援を!

 

バス/ワゴン:第1、第3、4金発

●毎回、ボランティア・バスの予定でしたが、定員(10人)に満たない場合はワゴン車で行きます。ボラバスか、ワゴンかは出発週の水曜日にメール等で連絡します

(また、運転できる人は申し出てください。車種:ハイエース)

16:00発で現地に行きます。

 <集合時間>

A:バス(金曜・正午発)

  11:00:集合⇒自己紹介タイム 11:30:事務所出発⇒ 12:00 祥雲寺発

 (12:00発⇒21:30着)

B:ワゴン(金曜 午後発)

  15:00:集合⇒自己紹介タイム 15:30:事務所出発⇒ 16:00 祥雲寺発

 (16:00発⇒深夜2:00着)

 

ワゴン/車:第2金

 ●第2金曜日はボランティアバスではなく、ワゴン車を運転していきます。

時間も①16:00発(10人)または ②19:00発の2段階で行きます。人数10人以下の場合には②で、10人超した場合には①と②の両方になります。

その場合には原則として16:00で行ってもらいたいです。遅くてもいい人は19:00です。

★希望時間「①、②、と どらでもOK」をお知らせください。

<集合時間>

①金曜 午後発)

  15:00:集合⇒自己紹介タイム 15:30:事務所出発⇒ 16:00 祥雲寺発

・初めての人もいるのでなるべく事務所に集合してください

 (16:00発⇒深夜2:00着)

②金曜日 夜発)

  18:00:集合⇒自己紹介タイム 18:30:事務所出発⇒ 19:00 祥雲寺発

・初めての人もいるのでなるべく事務所に集合してください

・渋滞などで間に合わない場合は「祥雲寺に行く」と連絡ください

申込>>>こちら

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「現場はまだ非日常のまま」の上に、水害‼

●元旦バイトで見たTV

 2024年1月1日栃木県。「従業員スペース」にメロンパンの香り・味。アナウンサーの激しい声が響き渡るなか、私はただ呆然と流れる地震・津波…の文字を眺めていた。

 元日のショッピングモール・バイトでの激務が眠気を誘う。いつもはここで仮眠だが、その日はテレビに映る危険信号が私の心を奪った。

 

●現場はいまだ非日常のまま

 6月末、能登半島に行った。災害ボランティアの経験はなかったが、それがハードルになることもなかった。栃木から能登半島まで9時間ほどマイクロバスに揺られ、深夜に着く。海辺の旅館「海楽荘」で朝6時の太陽を浴びる。そこから1日半、本格的な活動に入る。

 災害ボランティア=力仕事の概念が壊された。仮設住宅の一間で足湯ボランティアの存在を知ったのだ。湯につかる間はハンドマッサージを行いながら、傾聴する。この「即席地域サロン」では震災の話に限定せず、地元自慢や方言といった、何気ない話までもした。

 家財道具の移動や海浜ゴミの処分など、汗をかく仕事もした。しかし作業の休憩時間にも家主や家族の人と話す瞬間があった。「暑いのにお疲れ様」とスポーツドリンクをいただいたり、「マッサージ気持ちよかった、ありがとう」と感謝のことばをかけてくれた。

 能登半島の優しさ・気遣いが何よりも嬉しかった。ヘトヘトになりながらマイクロバスに乗り込む。ドアが閉まり動き出す。車窓からの眺めはまるで元旦当時の光景を写しているようで、1階が潰された家屋や傾いた電信柱、ブルーシートで何とか雨漏りを防ぐ家屋、その景色一つ一つが疲労しきった体に現実として襲いかかってくる。現場はいまだ非日常のまま。それが第一の感想だった。心残りのまま、栃木に帰る。

 

●「地震より水害の方がひどかった」

 それから3か月後、また私は能登半島に行く決心をする。3か月経って現地はどうなったのか、またあの人に会えたらいいな、そんな想いを抱いていた。その矢先、現地で水害が発生する。

 1週間後に迫るボランティア活動に向けて、宇都宮でミーティングが行われていた、まさにその最中にも。まだ雨は止んでいない、まだ被害は大きくなる。メディアやSNSの情報を頼りに、手探りのままミーティングは進んでいった。現場の状況が一変したが、それがハードルになることはなく、むしろ能登への想いが加速度的に高まった。

 「地震より水害の方がひどかった」足湯で出会った人が話していた。その言葉がずっと心に残っている。前回泊まった「海楽荘」の店主が亡くなってしまい、海楽荘も土砂崩れに襲われた。現地での食料調達でお世話になった「もとやスーパー」も水害の被害が色濃く残っていた。私もまた、その人と同じことを思っていたのだ。

 1日目の家財撤去の現場では、大量の土砂や枝木が奥まで侵入していた。土砂はヘドロのように重く、どれだけ掻き出しても出てくる土砂に悪戦苦闘した。家族が増えるごとに増築していったというその家にはたくさんの思い出が詰まっていた。それを一瞬にして奪っていった侵略者に私は恐怖と怒りを抱いた。汚れに注意しながらマイクロバスに乗り込む。車窓からの眺めは3か月前よりひどい姿だった。

 

●あの日の自分は、「遠くの誰かを思うこと」を忘れていた。

 2024年1月1日。新しい年に希望を抱く日。抱くはずだった日。大切な景色が奪われた日。大切な人が奪われた日。時間が止まった日。その日その瞬間に、私は大切なことを忘れていた。遠くの誰かを想うこと。無事を祈ることを忘れていた。私は2回のボランティアを通して、他人事だった出来事が「自分事」になった。

 

●その日から後悔しているが、悩んでも意味ないから現地に行こう!

 活動を終えたあの日から、私はいまだに後悔ばかりを抱いていて、例えば「もっと現地の方に寄り添えることができたのに」とか、「もっと体力があれば最前線で動けたのに」とか、他人からみたらどーでもいい悩みを抱えながら栃木にいます。でもどーでもいい悩みを抱える自分を認めてくれる、受け止めてくれる人(団体)がそばにいる。そんな幸せを噛みしめながら、今日も遠くの誰かを想って、がむしゃらに生きています。ありがとうございます。(篠原航太/大学3年)

 

>>毎週末、能登ボラ・水害、大募集中>>こちら

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緊急!能登・豪雨ボランティア募集。毎週金発―日戻り

能登地震&豪雨災害

奥能登・週末ボランティア   毎週金(12:00)発2泊3日

 

 輪島市 町野町は、ボランティア「極少」地区です。そんなところに100年に一度の豪雨。復旧途上の能登にまた・・・。

 毎月2回の地震被害のボランティアを、10月11月は毎週にしてボランティアバスで現地に行きます。困ったときにはお互い様。地球温暖化では水害が多発します。今できることをやりましょう!

【支援の計画】

○支援する場所:石川県輪島市・町野町

○活動:水害後の片付け、家屋の清掃、避難所・仮設住宅の支援(お茶会、足湯ボランティア)、在宅避難者のニーズ調査、農地・宅地の応急復旧など。

【行程】(毎金12:00発)

・現地で土/終日、日/半日の活動。

・毎週金の昼12時に出発。日曜21時宇都宮着/東京方面の人は高崎線新町駅で降車。

 ○ 宿泊:現地の集落の集会所。寝袋持参。1泊1000円(食費等)

※現在は停電、断水です。水を持ち込んで自炊します。

※電波も届いていません

〇 連携団体:NGO結、風組関東など。

○ 食事:宿泊場で自炊、またはコンビニ等で調達。

○ 参加費:3000円(本会の年会費。2回目以降はなし)

○ ボランティア保険は自分で加入してください⇒   https://www.saigaivc.com/insurance/

〇 報告会とボランティア事前説明会を、毎週土曜18:00~事務所で行います(オンライン参加も可)

〇 未成年者は保護者の承諾が必要です。

○ 持ち物:着替え、寝袋(夏はシーツのみでもOK)、洗面用品、タオル、長靴、カッパ(傘)、保険証 ○服装:動きやすい服装

 

金・発⇒日・戻り

・10/4-6 ・10/11-13、・10/20-22 ・10/27-29, 11/1,11/8,  11/15,11/22,11/29

※なお各種の都合で活動便が中止になることもあります。バスは定員が7人以上にならない場合は中止か、みんなで運転していくことに変更します

※災害NPO、NGOなどで独自に派遣計画を立てたい方も歓迎です。相談に乗ります。

※個人の自家用車等で現地に行く人も歓迎。連絡ください。

 

 ◆グーグルフォームから申し込み>>こちら 

 

応募のやり取り

①グーグルフォームに記入する

②応募から3営業日以内(日月祝休業)に事務局から仮受付メールが届きます

 ※詳細情報についての資料も添付いたします。

③出発日までに参加可能な説明会(説明会は毎週土曜18:00-)の日程を事務局宛てに返信tvnet1995@gmail.com

④受付完了

 

※フォーム送信後3営業日以内(日月祝は休業)にメールが届かない場合は、お手数ですが「とちぎボランティアネットワーク・028-678-3155」までご連絡ください。

※必要事項を明記したメール(③)が事務局で確認できなかった場合は応募取り消しとなりますので、ご注意ください。

 

■説明会/ 毎週土曜 18:00-19:00時(説明会・報告会・会議:リアル&ZOOM)>>こちら

興味のある方はどなたでも参加できます。事前申込みは不要。

 

認定NPO法人とちぎボランティアネットワーク

電話028-678-3155 FAX028-678-3176 ■https://www.tochigivnet.com

 ■メール info@tochigivnet.jp

 

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能登豪雨ボランティア救援募金

 

本会(とちぎボランティアネットワーク)など「栃木県から行う救援活動」に助成するほか、「現地で活動する地元NPO等」に助成します。栃木から、想いを届けましょう。

※とちコミへの寄付は、寄付控除により確定申告で寄付金額の最大約50%の税金が戻ってきます。

 

寄付の方法は

クレジットカード●>>こちら

 

銀行●栃木銀行 馬場町支店 普通 9918701

名義/(特非)とちぎボランティアネットワーク理事矢野正広

 

郵便局●宇都宮00360-4-38111

名義/とちぎボランティアネットワーク

 

※銀行の場合は、振込後、電話、メールで住所・氏名・電話番号をお知らせください。

電話028-678-3155 FAX028-678-3176 

E-mail info@tochigivnet.jp

 

 

とにかく1度行ってみるといい。

誘われて初ボランティア

 

 私は人生で初めてボランティアに参加しました。勇気が出ない・どこのボランティア団体に参加すればいいのかわからないことから、ボランティアをしてみたいという思いはありつつも、ボランティアに参加できていませんでした。しかし、今回は友人が「とちぎボランティアネットワーク」の能登地震ボランティアに行くと大学の先生からを聞き、私も一緒に参加することにしました。今回の能登地震のボランティアに参加して心から良かったと思っていますし、機会があればまた参加したいです。

 

「知ってる土地・人と暮らしたい」から

 

 1日目は移動で本番は、2日目と3日目の午前に足湯のボランティアしました。他に7人はビニールハウスの解体ボランティアで別行動してました。

 仮設住宅併設の集会所を借りて足湯をしながらマッサージ、蓄音機を設置してリラックスできる環境を作りました。仮設住宅を一軒一軒回って、宣伝した結果、10人以上の方に来ていただくことができました。手をマッサージをして肌に触れながら話すことで緊張がほぐれ、話しやすく感じました。印象的だったのは住民の皆さんが能登を愛しているということです。話を聞く中で「地震で家が全壊してしまって家に帰りたくても帰れない」「仮設住宅が狭い」などの不満があっても、金沢に移住せず仮設住宅で生活をしているのは「知っている土地・人と一緒に居たい」と思っているから。私はこの話を聞いて、少しでも早く能登を復興させたいと思いました。

 

能登が忘れられてきている。まだまだなのに

 

 3日目は前日とは別の仮設住宅の集会所。足湯と地元の歯医者さんの歯科検診・口腔ケアを行いました。印象的だったのは「能登のボランティアが減ってきている」「能登が忘れられてきている」という言葉を住民の方から聞いたことです。

 災害当時の状況と比べると良くなってきているのかもしれませんが、バスの中から見た能登の状況は、まだまだ助けが必要な状況と感じました。さらに先日「石川県が自衛隊に『撤収要請』を行った」というニュースを見ました。このような情報が能登の状況を知らない人に対して「能登は助けが必要ない」という印象を与えて、ボランティアの参加の減少や能登を忘れていくことにつながっていくと感じました。だから、私たちができることはボランティア活動を続けていくこと、見たこと感じたことを多くの人に伝えることだと思いました。

 活動はあっという間に終わりましたが、得たことはたくさんあり、忘れられない経験でした。少しでも興味があると感じたら、まずは1回参加してほしいなと思います!(捺美/学生)

ぜひ知って欲しい。今の能登を。ー石川県出身者の思いー

 

 

自己負担少ない・継続支援できる所を探した。

 私は石川県出身です。 はじめに、石川県へ気持ちを寄せてくださる方、災害ボランティア活動をしてくださる方、活動の機会を与えてくださるVネットの方、皆様方へ心より感謝申し上げます。有難うございます。

 私は災害ボランティア活動は未経験でしたが、元旦の能登半島地震の発災以降、個人的に二度活動に参加しました。もっと継続的に活動をしたいと思い、自己負担が少ない方が助かるので関東圏から団体等で行ける機会がないかを探していました。そんななか知り合いからとちぎVネットを教えてもらい、5月、6月、8月と奥能登週末ボランティアに行きました。

 

石運び、食器の運び出し・仕分け、納屋から輪島塗取りだし、倒壊ブロック塀の破砕、ビニルハウスの解体・・・

 

 最初に活動拠点周辺を目にした感想は「言葉にできない」でした。今もお話を伺ったり考えたりすると複雑な気持ちになることがあります。

 活動班は作業班と足湯班で編成されることがほとんどです。作業班は現地の災害NGOのコーディネーターを通して個人宅からの依頼内容を現場で行います。足湯班は事前調整をした上で集会所などで活動を行います。被災者の方々へ足湯マッサージをした後、「つぶやき」を記します。

 私は3回とも作業班として活動しました。右も左も分からないままではありましたが、石運び、家屋内から食器等の運び出しや仕分けのお手伝い、倉庫や納屋から輪島塗(家宝)などの運び出し、倒壊したブロック塀の破砕、ビニルハウスの解体のお手伝いといった活動をさせていただきました。

 不慣れな活動なので無理は禁物ですが、「遠くから来ているのでがんばりたい」という仲間の姿を見るとどうしても少し無理しがちな時もあります。

「何をすれば良いのか分からない」という不安はありましたが、現地に来ると意外と誰でもできそうな作業をお手伝いさせていただくのだなと知りました。怪我などないように気を付けなければ、と思います。

 

来年10月まで続くかも「片付け系」ボランティア

 

 私は主にSNSを通して情報収集をしています。発災直後と比べて様々なインフラの環境は改善されていますが、特に奥能登の個人宅は今もなおボランティアの方の助けが必要な状態が続いています。最近はほとんどメディアに取り上げられなくなりましたが、現地へ行かなければ知り得ない情報は本当にたくさんあります。

 石川県は公費解体や自費解体で2025年10月を目標に解体を済ませる方針ですが、その前に可能な範囲で「想い出の品」を運び出すことが必要だと思います。

 どうか引き続き、能登半島地震の被災地へ想いを寄せてくださることを願います。興味関心があれば、今から行く方は重装備でなくても作業はできると思いますので、ぜひ一緒に活動していただければと思います。何卒よろしくお願い申し上げます。(D,O)

 

※毎月第2、第4金曜出発。>>>奥能登週末ボランティア こちら>>>

「こんなことしてもらったのは初めてだよ。きのどくに」

街並みは圧倒的に人手不足で変わりなく、ためいきがでる。

 

自然は変わらなく美しいけど、まちなみは圧倒的に人の手がないことが理由で変わりがなく、ため息が出る。震災を機に農業をやめる人や、酒造をたたむ人もいました。

 今回の能登での災害ボランティアは、足湯提供と、万燈会という金蔵地区でのお祭りの準備。足湯をしながらマッサージしたり、お話したりすることで鬱屈とした仮設住宅暮らしにすこしでもほっとする時間を過ごせてもらえたら。

 八十歳過ぎのおばあちゃんに何度も、「こんなことしてもらったのは初めてだよ。きのどくに」(方言で「ありがとう」の意味)と言われた。あとは子どもと遊んでめっちゃ楽しかった!その子は足湯をするときにいつも楽しみにしてくれていて、朝一で遊びにきてくれる子らしい。お年寄りが多くて、遊び相手が少なそうだった。

 

ボランティアは多種多様。=何が復興につながるか、答えは一つではない証拠

 

 お祭りはろうそくを地区中の道路に置いて、8/15に点火する、その地区で15年以上続いてきた行事🕯️ 住職さんから直接お祭りの歴史を聞けた。コロナの影響で4年ぶりの開催で、普段なら地域の人と準備をしていたが、この震災でそれも難しく、外部のボランティアがお手伝いしている。

 災害ボランティアの活動は多種多様で、経過時期や地域によっても様々。それはイコール、何が復旧や復興につながるのか、答えは一つではないということだと思います。やっぱり一人一人の人生があって、暮らしがあるからこそ、まずはその声を聞かないと何ができるかすらわからない。たかが1泊2日のボランティアに、究極は何もできないのかもしれないけど、その声を聞くことだけでも、何か力になることがある。

 2月に一度行って、またいつか行けたらな〜と思っていたところに、森見登美彦さんの「恋文の技術」読んだら能登が出てきて、なんとなく行きたい欲が膨らんで、行くことができました。

 高校生も参加してたよ。

https://www.tochigivnet.com/災害救援-復興支援/

住宅は仮設だが、暮らしは仮じゃないぞ。

とちぎボランティアネットワーク「奥能登週末ボランティア〜みんなで運転コース〜」に息子と2人で参加してきました。

長いので

被災地の状況を知りたい方→②へ

ボラ活の感想を知りたい方→③へ

 

あさ4時着 「日本は広い!」

 

①奥能登週末ボランティア活動と流れ

 8/9金曜夜に宇都宮を19:30に出発し、頼もしいドライバー3人(勿論みんなボラ参加者)の交代夜通し運転で、私たちの拠点となった石川県輪島市町野町の集落集会所(公民館)に着いたのは朝4時(日本は広い)。電気とお水は完全に復旧してることがわかり、少しほっとしながら各自で座布団を並べて仮眠。

 8:30頃先に現地入りした人と合流し、簡単な朝ごはん食べながらその日の作業を確認しました。男性4人(息子含む)は、肉体労働チームで高齢者一人暮らしの宅の片付け。女性3人+男性1人は仮設住宅の集会所をお借りして足湯を。

 それぞれ開始するために移動開始。そこで初めてお陽様の下、目に入ってきたのは写真のような光景でした。一階が潰れた古い家屋をあちこちで目にしながら移動し、なんだかんだとトラブルありながらも活動を開始。私は足湯班だったので、仮設住宅を回りながら営業し、来てくれた方にお茶やお菓子を召し上がってもらったり、足湯+マッサージしながらお話を伺ったりしました。途中から肉体労働チームも足湯に合流し、15:30には撤収。

 

 お盆の万燈会(まんとうえ)の手伝いした。瓶洗い2000個。

 

 ピースボート運営のお風呂(ボラは無料)に入って、現地で唯一営業しているスーパーで夕食を調達。公民館でVネット事務局とZoomで反省会をした後に夕食。少しお酒を交えながら、ボラ同士で歓談、畳に座布団を並べて各自就寝。

 8/11朝、簡単な朝食を食べながら作業の確認して、掃除。帰る準備をして近くの正願寺に出発。正願寺で8/15に催される「万燈会」の準備が私たちの任務でした。

 コロナなどで休止した年もあったけれど過去15回開催している「金蔵万燈会」は、町野町金蔵地区5つの寺と地区内で3万個のキャンドルを灯して、ご先祖さまを供養する町をあげてのイベント。今年の正願寺はキャンドル2,000個に縮小して開催するので、その準備のためにみんなで手分けして作業開始。

 ワンカップの空き瓶から古いロウを取り出し→水で洗い→新しいロウソクをセット×70〜80瓶×30ケースが目標。たまにお喋りしながら、みんなで頑張って作業すること2時間半。前日に肉体労働チームが頑張ってくれていたお陰もあり、ほぼ目標だった2,000個達成しました。

 作業後に住職さんにお寺を案内してもらい、欅づくりのお寺がほとんど被害を受けてないことに驚き、またその壮麗さと豪華さに圧倒されながら、この土地(金蔵・かなくら)がいかに豊かだったかに思いを馳せました。

 

月深夜0:20、益子戻! ほのかに幸せ抱え

 

 その後は輪島市街地まで40分移動し、役所で「高速道路の減免措置」書類の印鑑をもらい、震災直後に火災が起きてしまった朝市の…あまり変わってない現状を見ました。美味しいお弁当をゲットして現地解散の方たちと別れ、石川から富山に続く道で汽車(単線の電車)と追いかけっこしたり、穏やかな海を横目に見ながら高速道路に入り宇都宮への帰途につきました。

 帰りも頼もしいドライバーさんが交代で運転してくれて(とんでもなくタフ)、車中で色んな話をしながら宇都宮に到着したのが8/11の23時過ぎ。お疲れ様とありがとう、また会いましょう〜と解散。益子に着いたのは0:20を過ぎていましたが、疲れよりもほのかに幸せな気分を抱えて眠りにつきました

 

足湯つぶやき「仮設がせまく、暑い。先も見えない」

 

②被災地(輪島市町野町)の現状

 足湯の時に聞いたお話のシェアと共に、私の目から見た現状報告を少しします。

◯「お盆が近くなってきたけれど、仮設住宅が狭く、子どもや孫が帰ってこれない」

◯「夫婦だけで仮設にいるが1Kしかないため、夫が寝ていると電気をつけることもはばかられ、狭いキッチンに電気をつけて立って新聞を読んでいる」

◯「田んぼがひび割れてしまったが、家の片付けも終わっておらず、高齢もあり、稲作を諦めた」

◯「仮設には入ったものの、先が見えず、家を再建するにも経済的な負担が大き過ぎて老後が心配」

 (原発避難の)福島もそうでしたが、広くて大きい家屋に住み慣れていた人には、本当に気の毒な小さな仮設住宅は、限られた土地に作られた集合住宅のため、風の抜けるような設計ではなく、とても暑そうでした。

 割り当てられた住宅は、家族の人数が考慮されているとはいえ、部屋数が少なく、このあたりの法整備も"仮設"住宅とはいえ、もう少しどうにかならないものかと思いました。

 能登に入ったら、一般道を走る車がさながらジェットコースターの様に揺れたので(セレナに荷物満載で7人乗りの3列目に乗っていたので)、眠い頭でなんだろうと思っていました(夜中で暗くてよくわからなかった)

 先輩ボラさんに聞いたら、道路の亀裂を応急処置的に補修したために道路に沢山の凸凹ができているのが原因だったとわかり、地震の強さと規模がいかに大きかったことがわかりました。また、発災から半年以上も経つのに未だに倒壊した家屋がそのままにされていて、その数の多さに驚かされました(倒壊した、ではなく、倒壊した住宅がそのままにされていること、が問題)

 あまり復興が進んでいないことは、今回現地に行って改めて感じました(控えめな表現)。個人の力ではどうにもならないと思いました。 お年寄りじゃなくても途方に暮れてしまう程の大きな被害を、個人個人が負っていること、またそれを支援する力が(マンパワーも公的な支援もボランティアも)圧倒的に足りていないと感じました。

 

ボランティアの積み重ねが復興支援かも

 

【③ボラ活動してみての感想】

 今回のボランティア、私たち親子以外は皆さん1人参加のリピーターだったので、みんな小さな指示がなくてもサッサと作業をこなせる人ばかりでした(これは結構すごいことかもしれない)。そんな人たちが震災直後から何度も何度も現地に足を運んでいたため、現地の方から受け入れてもらってるんだな、と思う場面が沢山ありました。("はずかしがりや"の女の子が、ずっと足湯の場で遊んでいた)。これは、今回のボラさん含めた先輩ボラさんたちがコツコツと地道に作業をして、積み重さねてできた信頼があったからこそで、それに気づくことができたのもまた、先輩ボラさんからのお話でした。

 それにしても能登弁のやさしい響きよ。土地柄とお人柄があらわれてて、大好きになってしまった。関西弁っぽいけど、もっと柔らかい感じで男性が話しても、女性が話しても、どことなく品がいい。東北弁に近いのかなぁ、温かさと柔らかさがあるんですよね。今回のボラを引っ張ってくれたTさんは、東京在住・能登出身。能登に入ってからどんどん能登弁が出てきた彼は息子に気を使ってくれたのか、話しかけてくれたり、色々と教えてくれました。子どもにとって、親と先生以外の大人と関わりを持つことは、とても大事なことだと思ってるので、ありがたかった。あんまり社交的ではない(わりにシャイ)な息子も思ったより頑張ってくれたので、母はちょっと息子の成長を感じました(感動するほどじゃないけど)

 今回一緒に活動したボラさんから、私も色々教わり、何よりも勝手に励まされました。まだまだこういう力が、市井を生きる人々に残っていることに、とてつもなく勇気をもらいました。

 現代日本人、捨てたもんじゃない。

 私たち、"災害ユートピア"ちゃんとあります、作れます。

 その力を持っています。

 また時間を作って能登に行きたいと思います。ここまで長い文章読んでくれた貴方も、ありがとうございました。南海トラフを煽り虎視眈々と独裁国家を狙う政府なんか、蹴散らしてやりましょー

 

【奥能登週末ボランティア】まだまだ募集中!

https://www.tochigivnet.com/%E7%81%BD%E5%AE%B3%E6%95%91.../

【金蔵万燈会】

https://www.pref.ishikawa.lg.jp/movie/page/0422.html

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万燈会の復活。今年は2200灯。来年は全国から奥能登へ!

 

 皆さん、こんにちは。「とちぎVネット」として、8月15日に輪島市町野町金蔵の正願寺で開催された「金蔵万燈会」(かなくらまんとうえ)の報告をさせていただきます。今年は16回ぶりの復活となり、私たち「とちぎVネット」のメンバーもこの特別な行事に参加し、貢献させていただきました。

 

2,200本の蝋燭が灯す祖霊への祈り

 

 金蔵万燈会は祖霊を供養し故人の魂を慰める伝統的な行事です。過去には金蔵地区の5カ寺において、最大で3万燈が灯される大規模な催しとして行われていました。地域全体が蝋燭の光に包まれ、その幻想的な風景は参加者に深い感動を与えてきました。今回の万燈会では約2,200本の蝋燭が灯され、その灯りは夜空に「復興🙏願い」という絵文字を描き出しました。この美しい光景は、地域住民とボランティアが一丸となって作り上げた結果であり、参加者全員の心に深く刻まれました。

 ドローンによる空撮映像はまさにこの行事のハイライトとなり、地域の皆さんにとっても私たち「とちぎVネット」のメンバーにとっても忘れられない瞬間となりました。

 

地域の人と瓶洗い1000個!「連帯感。苦労が一瞬で消えた」感じ

 

 今回の万燈会では、「とちぎVネット」から9人のメンバーが瓶洗いや蝋燭詰めの作業に参加し、また4人が前日・当日の蝋燭の並べ作業を担当しました。全員が心を込めて作業に取り組み、地域の方々と協力しながら、無事に行事を成功させることができました。ボランティア活動を通じて、私たちは地域住民の皆さんと連帯感を深め、またこの行事の意義を改めて感じることができました。特に、蝋燭が灯された瞬間は、これまでの準備の苦労が一瞬で報われるような感動がありました。

 

災害ボラは重要。「心のケア・地域の再生」もやる。

 

 今回の金蔵万燈会での活動を通じて、改めて感じたのは、災害ボランティアの重要性です。ボランティアは、単なる物理的な支援だけでなく、地域社会の再生や心のケアにも貢献します。しかし、その活動は自動的に集まるものではなく、私たち一人一人の積極的な参加が求められます。

「とちぎVネット」では、今後も地域社会に貢献するために、さまざまな活動に取り組んでいきます。次回の金蔵万燈会にも、ぜひ多くの方々に参加していただき、一緒に地域を支える力を集結させましょう。

 

来年も、再来年も、全国からやろう!

 

 金蔵万燈会の復活は、多くの方々の協力と努力の賜物です。今後もこの伝統行事が続き、多くの人々に感動と希望を与え続けることを願っています。次回の万燈会には、さらに多くの皆さんのご参加をお待ちしております。 

 この報告が、次回の活動への関心を高め、参加者の増加につながることを願っています。(豊島・宝達志水町)

 

お寺に浮かぶ「復興」の灯 ろうそく2200本、ボランティアと [能登半島地震] [石川県]:朝日新聞デジタル

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奥能登 町野に行きませんか。毎月2回ボラ募集

 

 町野の人たちは優しく、強い。ボランティアで訪れると誰も彼もが、「来てくれるだけでありがたい」と笑顔で答える。

 まるで町野中に、ボランティアに聞かれたらこう答えましょう、という問答集が回覧板で回っているのでないかと思うほど、一様に笑顔でこう答える。

「来てくれるだけでありがたい」

 穏やかな元日のくつろいでいた時間を大災害で奪われ、突然に親しい人との別れを余儀なくされ、水も電気も情報もない過酷な時間を過ごした奥能登の人々。悲しく悔しく寂しく辛く絶望に襲われたことは容易に想像できる。今も先の見えない不安を抱えている。

 私たちボランティアが何の気無しに向けるスマホのレンズに憤りを感じたことがないだろうか、私たちボランティアの不用意な一言で心の傷をえぐられたことはないのだろうか・・・。

 話をしていた時に2回だけ、憤りと苛立ちを滲ませた目を見たことがある。しかし、それもほんの一瞬のこと。次の瞬間にはいつもの穏やかな笑顔で、

「来てくれるだけでありがたい、また来てほしい」

 一人の人間にできることは限られている。ごく僅かなことしかできない。それでも町野の人たちが「来てくれるだけでありがたい」と言ってくれるから、今月も会いに行く。

 何もできなくていい。行くだけでいい。難しいことは何もない。私や、あなたの存在が、町野の人たちの力になる。

 町野へ行きませんか?(M.Masaki)

 

◆ ◆ ◆

 

行こう奥能登へ。毎月第2第4金に出発、戻り日曜深夜

第2金19:00発(2泊2日) みんなで運転コース:定員8人…費用(食費など)割り勘

第4金11:30発(2泊3日) ボランティアバス:定員15人…費用(1泊2000円など)

●草刈の時期です。

●足湯もあります

●家の片付け、家財出しもあります。

  詳細・申込>>>こちら

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私の1歩がその先にいる誰かの役につながると信じて、活動したい

●「人生の岐路に立っている」ので能登ボラ

6/28~6/30の2泊3日で、能登半島災害復興支援ボランティアへ行ってきました。私自身、今回が初めての災害ボランティアで、どんな現場で何をするのか?何ができるのか?と不安も多い中での参加でした。

 参加した理由は、栃木にいながら大きな地震を体感し(なんとなく)能登半島地震を身近に感じていたからです。また、私自身、人生の岐路にたっていると感じており、もし何か自分にできることがあれば、なんでもやりたいとの想いから今回の参加に至りました。

 能登の現状は、半年たった今も復興が進んでおらず、倒壊した家が町中に並んでいました。地域によっては未だ断水が続いており、隣の町まで給水に行っている方もいらっしゃいました。住居のすぐ後ろにある山は、崩れかかっており、地震だけでなく、これからの季節の雨風による土砂災害も心配なのが現状です。

 

●出会った人と、干上がった漁港の草刈り…

 現地での活動は、様々な活動をスタッフで手分けをしながら行いました。私は、足湯の提供や、ご自宅の片付けなどに携わりました。終始笑顔で話されてる現地の方たちの、一瞬表情を曇らせながら話す、震災当時や現在の想いに言葉が出なくなることもありました。

 様々な活動を行う中でも、特に印象的だったのは、早朝の散歩中に、たまたまお会いした方とお話をしたことで、その日の活動につながったという出来事です。この真浦地区は2mの海底隆起で漁港が使えず、水も出ないので生活ができません。14世帯のほぼ全部が地区外に避難してます。お住いは車で1時間ほどの場所へ避難しているそうですが、犬の世話や周辺の草刈りに通っているとの事で、膨大な敷地を1人で草刈りをしているところでした。

 私たちボランティアが、草刈機を栃木から持ってきていたので、ぜひそれをやらせてほしいと、その日の午前中はスタッフ一同で、漁港周辺の漂着ゴミ拾いもしました。いつもは住民総出でゴミ拾いするそうですが、3人しかいないのでそれもできません。

 現地の人の声を直接聞き、問題があった時にそこに対応できる余裕を持つことの大切さを感じました。

 ボランティアに行く前は「何を」するんだろう?と表面上でしか活動を捉えられていませんでしたが、何のために能登の現場に行ったのかという本質的な所を考えるきっかけになった活動でした。現地の人のお役に少しでもなれたのなら幸いです。

 

●能登の現状を伝える。仲間を増やす。

 実際にボランティアに行って、できることは些細なことかもしれませんが、その中でも現地の方が1人でも、一瞬でもリラックスしてくれる環境がつくれたり、1人で難しいところをお手伝えたり、そういう活動が継続的に、これからも広げていけたらいいなと思っています。

 栃木に帰ってきて、私ができることは、能登の現状や感じたこと、考えたことを皆さんに伝えて、能登について考えるきっかけになるよう情報を発信をしていくこと、行く人を支えてくれる人を増やすこと、実際に現地に行く仲間を増やすことです。

 できることは小さなことですが、私の1歩がその先にいる誰かの役に繋がることを信じて、活動をしていきたいと思います。これからも機会があれば私自身もまた能登半島へ行きたいと思います。(森満里奈/無職)

 

※毎月第2、第4金曜日出発「奥能登週末ボラ」。行く人募集>>こちら

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事務局ボラの初参加。「行く・つながる」これからもまた行こうと思った。

半年経ってもまだひどい。町野町の現状

 

 6月14日から16日のチームIは、男性5人女性5人のバランス型チーム。20代の参加者も4人と、平均年齢低めのパワフルなチームだった。私は2月から事務局で何人ものボランティアを派遣してきたが、今回は派遣終了を目前に自分の目で現地を見ることにした。一日目は20時40分に珠洲市の宿泊先に到着。二日目は8時から作業開始。9時頃から作業班と足湯班に分かれた。私は足湯班として町野町の集会所に向かったが、想像を絶する町の様子に言葉を失った。こんなにも建物の倒壊がひどいものかと。そして、何よりも半年以上経った現状であることが信じられなかった。三日目は作業班、口腔ケア班、子供班に分かれて活動終了。16日22時頃宇都宮へ帰還した。

 

倒壊した家の中を歩いた。まるでトリックアート

 

 モトヤスーパーでアイスを無料で配りながら現地の子供たちと交流を深めていくうちに、被災した実家を見せてくれた子がいた。小学二年生で現在は金沢で生活しているという。週末になると町野に戻ってきている。家は旅館で、震災当時は翌日の料理の仕込みが行われていた。トリックアートのように家屋が傾き、まるで平行四辺形の中にいるようだった。しかし、家は両側の倒れてきた家屋に支えられ、完全に潰れることは避けられた。本人は両親と茶の間にいたが、命からがら逃げだしたという。「向かいの家のおじちゃんも、隣の家のおばちゃんも家の下敷きなって亡くなった」と言った。向かいのおじちゃんは、地震発生後一度外に出たのにも関わらず、安全を確認して家屋に戻ったときに家が倒壊して帰らぬ人となった。その証拠に廊下で亡くなっていたという。

 町野の家はどれも立派な家ばかりだった。瓦が黒く、木造の大きな家が多くみられた。潰れた家屋を見るたびに、自分が中にいたら決して生きてはいられないだろうと強く感じた。

 

大人も子供も今を必死に生きている。目の前にあることを懸命に

 

 モトヤスーパーでは別団体の炊き出しが毎週土曜日に行われており、土曜日はスーパーを中心に町民が大勢集まる。私がスーパーにいた時、偶然再会したと思われる女性二人組に遭遇した。「○○さん、無事だったの!良かった…」と、半年ぶりの再開を喜ぶ二人が印象的だった。それから、たくさん一緒に走り回った子供たちの笑顔も忘れられない。倒壊した実家を見せてくれた少年は、現在金沢の小学校に通っているが、同じ町野小学校の子は誰もいないという。しかし、新しい学校もすごく楽しいと教えてくれた。彼に限らず、みんな学校がばらばらになってしまった。大人以上に何が起こったかわからない子供も、子供なりに置かれた状況を懸命に生きている。早く町野の復興を進めて、一日でも早く以前までの環境に戻したいと思った。

 

ボランティアの手を休めてはいけない

 

 町野の人々はボランティアにたくさんの感謝を伝えていたのが印象的だった。一日と半日のボランティアがどれだけ役に立てているのか少し不安だった。しかし、ボランティアが来てくれるだけでありがたいという言葉を何度も耳にした。私たちのボランティア活動は6月末を目途にいったん終了するが、事務局として7月以降の支援も考えながら今回は参加したが「中止してはいけない」と強く感じた。4月から約3か月間、多くのボランティアの協力のもと、町野町との絆を築いた。このつながりをやめてしまうのは今までボランティアに参加してくださった方にも申し訳ない。加えて、町野町の人たちもまだボランティアを欲している。物理的な町の復興は進んでいない。倒壊した家屋だらけだ。するべきことがまだ山のようにある。7月以降もなにか方法を考えてボランティアを派遣したい。(吉田)

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能登ボラ報告 片付かなかった家、住人と一緒にスッキリ!

 奥能登週末ボラ・チームHは総勢13人の大人数。その中の活動の一部をお知らせします。報告:山本さん。

 6月8日(土)、スーパーモトヤさんの自宅片付け。6カ月間手つかずだったようです。

 まず、ガラスや陶器が割れて散乱しているキッチンを片付け。「割れて散乱した物を土嚢袋に入れて、他の物は基本的には全部残す」との事でした。あまりにも汚れたり、壊れたものは可燃ゴミとしました。使える物は全て2階から1階に下ろして並べました。土嚢袋は「災害NPO結」さんから提供、可燃ゴミ袋は「スーパーモトヤ」さんから提供、片付けた荷物類を入れる段ボール箱も「スーパーモトヤ」さんから提供でした。
 片付け・荷物出し隊は、その日、その日で作業内容が違うため、安全長靴やゴム手袋、着替え等、多めに持って行きましたが使わない物もありました。ガラスや木片などが散乱してるため、安全靴+釘抜き防止靴底はとても役に立ちました。上記の土嚢袋やゴミ袋、段ボール箱の他、ホウキ、ちりとり、脚立等、現地で借り、利用できる物は利用すると良いと思いました。

 週末ボラ能登ボラは6月いっぱいまで。その後は頻度を落として継続することを検討してます。6/22、18:00~奥能登ボラどうするか会議をやります。ZOOM+リアルなので、能登行った人は是非きてください。⇒メールください

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【力強く、そして優しく、共に立ち上がり、能登を支える栃木からのメッセージ】

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聞くと行くでは、心の残り方が天と地ほどの差がある。まず、能登に行こう。

金曜の講義1つサボって、能登へ

 

 5/17から5/19にかけて、能登半島の災害支援ボランティアに参加してきました! 金曜日からの3日間ということもあり、大学の講義を一つサボっての参加となりました(笑)

 復興が全然進んでいないと知人に聞き、被災地の現状を自分の目で確かめたいと感じたことで参加を決めました。活動した場所は石川県輪島市町野町です。

 

50-80代、同世代なし。夜道は揺れた

 一日目、参加者10数人ほどが集まり、能登半島に向けて出発しました。参加者の多くが50代から70代で、中には83歳の方もいらっしゃいました。同世代の人がいなかったので、果たして打ち解けられるのだろうかと不安でしたが、フレンドリーな方ばかりですぐに打ち解けることが出来ました。バスに揺られて10時間ほどで、珠洲市にある宿泊先に到着しました。目的地に近くなると、ジェットコースターかと思うほどバスが揺れました。通れる道でも整備はまだまだ進んでいないのだな、と真っ暗で道路が見えなくても分かりました。

 

潰れた家々、、日常が簡単に崩れ去るのだ。4か月なのに、まだ!

 二日目の活動は、足湯のボランティアを行いました。足湯は仮設住宅に設置されている集会所で行いました。活動場所に向かうバスからは、生々しい震災の爪痕をたくさん見ました。一階部分がなくなって二回だけになった立派な瓦屋根の家、傾いた鉄筋コンクリートの建物、跡形もなく崩れた家など、思わず目を覆いたくなるような光景でした。私たちが当たり前だと思っている日常は簡単に崩れ去ってしまうのだということを強く実感したと同時に、どうしてつぶれた家が4か月以上もそのままなのだろうかと怒りを覚えました。

 

ツバメの巣が学校に沢山ある。「家がない」ので学校に集中してる

 足湯のボランティアでは、被災者の方とコミュニケーションをとりながらリラックスしてもらうことを目指しました。足湯をしながら悩みなどを打ち明けてもらうことで、どのような仕事をしてほしいのかなどのニーズを知ることが出来ると知りました。しかし、私の仕事はもっぱら子どもたちと遊ぶことでした。絵をかいて遊んだり、外でサッカーをしたりして、とても楽しい時間を過ごしました。子供たちと話す中で印象深かったのは、小学校にツバメの巣がたくさんできているという話です。家の多くが倒壊したことで、他に巣をつくる場所がなくなったため、小学校にツバメが来るようになったのだと中学校の理科の先生が言っていたそうです。ツバメの巣と同じように、町の施設も多くが学校の中に設置されていました。普通の生活を取り戻すにはとてつもなく時間がかかりそうだと実感しました。

 

草刈り! 山道は斜面崩壊、擁壁ごと崩れている。

 三日目は、草刈りを行いました。道中のいたるところが斜面崩壊をしていました。かろうじて土嚢が積みあがっていましたが、道路のすぐ脇には流木や土砂がたまり、ビニールシートをかぶせることもされていませんでした。コンクリで固められた斜面でも、その擁壁ごと崩れているところもあり、揺れの大きさは相当なものだったのだろうと感じました。草刈りの作業を行ったのは、日本の里百景にも選出された金倉集落というところです。普段は美しい田園風景が広がっている地域ですが、田植えがされていない田んぼも多く、多くの民家が傾いたりつぶれたりしていました。今回は、美しい景観を維持するための田んぼの草刈りでした。数人での作業でしたが想像以上に綺麗になりました。しかし、草刈りができていない場所はまだまだたくさんあり、全然人手が足りないなと感じました。

 

災害対応と地域社会のありかたを自分事として考えないと。

 ボランティアに参加するには、お金と貴重な休日をささげる必要があり、仕事に勉強と日々忙殺されている人にとってはハードルが高いと思います。しかし、話に聞くのと実際に現場に行って活動をするのとでは、自分の心への残り方は天と地ほどの差があると思います。私は、あまり深く考えずにこのボランティアに参加したのですが、それでもいろいろな人との出会いや様々な発見があり、災害への対応や地域社会の在り方を自分事として考えていかなければならないと感じました。特に、これから社会を支えていく若い人たちが考えていくべき課題だと考えます。皆さんも是非、能登半島の災害支援ボランティアに参加してみてください。(榎森) 

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能登ボラ チームJ中止。代わりに6/28-30(K)やります。【足りない=人いない!毎回14人募集】

毎週行ってるボラバス、20人位乗れますが、毎回7-8人です。本当に人がいません。6/21-23(チームJ)が最終ですが、申込がいないので中止します!

代わりに翌週6/28-30(チームK)を作りますKは学生中心のお仲間で行くワークキャンプ風になる感じです。

 奥能登は連休明けボランティアがいません。行く人がいないのと、お金が続かないので6/30で週末ボラバスは中止しますが、その後も月1回は能登に行きたいと思っています。また、学生さんの夏休みにワークキャンプで草刈、援農などいかがでしょうか。これからも毎月1回、長く応援したいですね。そのためにも、今できる、毎週末ボラまだまだ募集中です。

●6/21-23(チームJ)中止

●6/28-30(K)新規募集!!

●バスは5人以上にならないと運行中止します。

●4人ならレンタカーで栃木から乗っていくことも検討(皆で運転+運転ボラ募集!)運転手いないときは中止。

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「働く子育て世代が疲れている」。仕事は数倍、土日は自宅片付け。「子どもの面倒見てくれるボランティアは助かるな~」

奥能登・週末ボラ「チームB」は11人が参加し、4/26から28日に活動しました。

 金曜日の昼出発し、夜到着、翌土曜日から活動開始。

今回は2チームに分かれ、仮設住宅集会所と避難所である中学校体育館での足湯、納屋からの農機具の取り出しや農作業(援農)を行いました。

 片付けは現地で活動する災害NGO結のコーディネートで資機材も準備してもらいながら活動しました。チームの中には70-80代の人もいましたが、年齢を感じさせない元気さで、はつらつと作業していたとのことです。

 

 仮設、「オール電化で使い方わからない」高齢者多数

 また、仮設に住む人の自宅に片付けもやりました。自宅は仮設と全く違う地区で、ボランティアもいないなか1月から今まで一人でずっとやっていたとのことでした。

 集会所の足湯には多くの仮設住宅の人が参加していました。もちろん子どもも。ボランティアが持ち込んだ風船や絵の具、絵本など喜んでもらえました。また、仮設住宅はオール電化ということで、設備の使い方が分からない人も多く、数件のお宅に伺って操作方法などを説明しました。(東日本の時もそうでしたが、仮設の設備は問題が多いですね)

 1週間そのまま滞在した。スタッフ・ボランティアの菊地さん高井さんは、近所の人と仲良くなり、花のビニールハウスで援農のボランティアをしたそうです。キクチ・タカイ組が聞いた話では働く子育て世代が疲れていて「平日は、震災関連の慣れない新しい業務でいつもの数倍の仕事があり、休日は自宅の片付け。子供のことには手が回らない」と、非常に疲れているとのこと。「休みの日に子供の面倒を見てくれるボランティアは助かる」とのことでした。

 

きょう出発のチームCは、5/5駄菓子屋作戦

 本日5/3にはチームCが出発し、明日から活動を開始します。

 GW中ということもあり参加者は13人になりました。チームBの皆さんが聞いていた話で、子どもたちが、もっと遊びたいという声がありました。それを受けて、参加ボランティアが周囲の人に声をかけて、宇都宮市の駄菓子屋NPO「シェアハッピーエール」から駄菓子の提供をいただきました。他にもヨーヨー釣りや鯉のぼりの装飾もあつまったので、5/5の足湯&カフェの時間には子どもたちが喜びそうなイベントを実施できそうです。

 6月中旬まで毎週末出発です。

 来週以降もまだまだ人手が足りないので、ぜひ一緒に活する人、お待ちしてます!(清人)

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家屋荷物取り出し、ブロック塀解体、仮設で足湯+集会所営業、炊き出し…活動は様々あります!

◆奥能登10時間。でも昼の移動なので疲れない! 

 奥能登・週末ボランティア「チームA」はボラ4月19日金が初。9人が参加しました。メンバーはほとんどがリピーターで、初参加は1人だけでした。

 金12:00/出発。マイクロバスで約10時間後。町野町のトンネルの先(珠洲市)の海楽荘に到着。

 そのまま寝袋で寝て翌日8:30から活動。土9:00/活動は3チームに分け、仮設住宅の集会場での「足湯」、もう1チームは家屋の片づけ系、炊き出し+片付けチームの3つ。

 町野に隣接している(能登町)柳田地区で人力ハンマーによるブロック塀解体(3人)、その後(輪島市)町野に戻り、足湯の応援+昼食。2件目は家具の取り出し、3件目は納屋から大工さは工作機械の取り出し(重機と連動)と廃棄材木の分別。一方の足湯チームは仮設で、神戸たこ焼き隊とのコラボをしつつ、足湯の営業に他の集会場に回って顔つなぎをし、さらに炊き出し応援に行くという。あちこちでの活動でした。

 

◆スターリンクで活動報告会

18:30/「現地の報告会とボランティア説明会」を栃木事務所とつないでやりました。通信状況がもともと悪い地区で、先週やっと衛星通信スターリンクをつないでWiFiが何とか開通した(関東風組小林さんのおかげ)ので、これで報告会をやりました。

日6:00/炊き出し2人が早めに活動開始。片付けは9:00からつぶれたコンクリートブロックの納屋から電動削岩機で耕運機の取り出し(30分)。移動して2階から家財運び出し2件を同時進行で実施。さらに足湯チームは金倉集会所での足湯でした。

 現場のバス14:00発。宇都宮到着が遅かったので、次回から13:00発にしたいと思います。

 

 仮設住宅ができ始めて、人が戻ってきたので片づけてほしい、仮設の中の棚を作りたいなどの生活の要望がたくさんあります。それらを足湯の活動で仲良くなって実施していこうと思っっています。

 また、子供たちも「友達がいなくなって寂しい」といってます。

災害のボランティアはニーズ(要望)を集めて、現場の作業確認するボランティア、現場作業を指揮するボランティア、現場で重機や道具を扱うボランティア、住民の気持ちに寄り添い仲良くなるボランティアなど様々なボランティアの組み合わせで活動ができるのです。

 いま、とちぎVネットから2人がそのまま残り、御用聞き&コーディネートの活動をしています。キクチさんからは「現地ではまだまだ活動場所があり、ニーズは沢山あることがわかってきた。体力を必要とする片付け等のボランティアにはやはり人手を必要としている」と言ってます。また「(保育園再開していないので)子どもを見守りながら、自宅の片付けなどが進まない」という親のつぶやきもあります。

 これから6月下旬にかけて、毎週末派遣を続けていきます。現地の状況にあわせた臨機応変の支援を続けたいと思います。

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4/19から 奥能登・週末ボランティア、募集! まずは足湯ボラ、お茶会から始めます。

派遣第2弾始まります。

 これまで(1/23-4/4)の支援は毎週2回連続して20陣をおくることを10週やってきました。行った人数はのべ約384人。主に穴水町でやりましたが、15陣からは土日は町野町(輪島市)でも一部活動しました。

 派遣第2弾は「奥能登・週末ボランティア」です。・金曜・昼12時出発、日曜夜9時戻り。活動は土・日AMの1日半。宿泊は集会所や民宿等を(予定)。

 町野は震源から5キロ位。被害が非常に大きく、住民の5割~8割(推定)は市外に2次避難していて、片付けの要望そのものがない。⇒だからボランティアがいない、⇒ボランティアがいないので実情が伝わらない。⇒何もはじまってないす。輪島や珠洲よりも全く知られてない地域です。

 現地活動は1日半なので「片付け作業」がないと、何もないまま終わってしまいますが、同時進行で、仮設住宅でのお茶会・足湯などや、地域の戸別訪問を行い、要望・活動を拾い出す活動もします。

 被害が大きい地域だからこそ、住民がいない、ボランティアもいない、ボランティアセンターもない、公共交通もない、コンビニ・スーパーもない、過酷なうえに大きい被害がのしかかり、さらにとり残されています。ニーズ拾いも自分たち、移動も自分たち、生活も自分たち。一つずつ力をあわせてやりましょう。>>応募はこちら

 

 足湯のつぶやき~町野編(3/26)~

50代男 ●1月1日から1月2日まで家の外にテントを張って生活をした。自宅周辺に住んでいる3世帯4人で過ごし、1月4日頃に集会所へ行った。1月1日時点では100人ほどが同じ村にいたが、今は30人ほどしか残っていない。とにかく若い人が少なくなった。理由は、去年5月の震災後(2023/5月にも珠洲で地震)、自宅などをきれいに直したばかりの今回の地震だったため、またここでやり直そうという気力が、若い人には出にくかったのではないか。 

 自宅も小屋が倒れた。住んでた家は中が大変なことになったが、1月中に自分で片付けた。友人からボランティア(手伝いに行くよ)と声をかけてもらったが、何を頼んだらいいのかわからず、自分でやった。もっと高齢の人には、家の中のものを運ぶなどのボランティアが必要だと思う。足湯は、はじめての経験で気持ちよかったです。

 

70代男  野山を歩くのが好きで今の時期は山菜を取っている。 色々な野生の果実を取ってジャムを作ったり、イノシシを取ったりして楽しんでる。この集落では以前は毎年、東日本大震災の後、キャンドルをともす行事をやっていて大勢のボランティアの人が来てろうそく3万本を広場や田の畦に並べていたんですよ。

 家の状況は この辺はまだ良い方です。他の地区の潰れてしまった家を見ると心が痛む。 この二次避難をしている人が多くてその人たちが家に戻ってきて片付けるのはまだ先になるだろう。

 

60代女● 地震後2カ月間、金澤の娘息子の家に行って孫の相手をしたりしていて最近戻ってきた。金沢まで12時間かかった。普段なら2時間。地震の後4、5日はずっと救急車の音が鳴り続けていた。集落の人は3割ぐらい残っていて、後はまだ戻ってこない。水道の水が出るようになって飲めるようになった。今は支援物資が来ているけど、今月末までかな。足湯は足が暖まったわ。 

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輪島市の町野町で活動。ボラ宿泊拠点にビニールハウス建てます!

3月15日から20日までの第16陣の活動報告です。今回は5人のチームで、なかには三度目の参加者もいました。この陣から穴水町の避難所プルートを拠点とした活動に加えて、輪島市町野町での活動が始まりました。

 第0陣の現地視察や、2月25日での活動ブログで報告した「とちぎ弁当連絡協議会」の炊き出しのコーディネートに協力していただいた災害NPO「関東風組」のコーディネートのもとでの活動でした。

 

2カ月ほとんどボランティアが入っていない地区

 この町野地区は2カ月間外部から一般のボランティアがほとんど入ることなく、避難者たちが協力しながらなんとか生活を維持してきた地区。高齢者も多く、被災した住宅の片付けなどもほとんど進んでいない状態でした。栃木からの派遣でやっと一般の災害ボランティアが活動を開始したところで、災害ごみの片付けなどニーズはたくさんでした。食器棚やテーブル、ベットに加え、ピアノの片付けなど体力をとても使う作業がメインだった。

 災害ごみの片付けで苦労したのは、自治体の「災害ごみ分別をしっかりしていないと受け入れてもらえないこと」。買いだめで住宅にたくさんあったシャンプーや調味料などを分別することなく一度まとめて出してしまい、後で指示に従って細かく分別しなければならず、時間を使ったとのこと。初日なので課題とノウハウはしっかり後陣には引継ぎを行いました。

 

ボラ宿泊拠点にビニールハウス建設します! 

 また、町野地区周辺のがけ崩れなどで支援がなかなか入れない地区に炊き出しをする手伝いもしました。この地域もほとんどボランティアが入ってなくて、被災地のボランティア不足が著しい課題だと感じられたの報告です。

  17陣以降も土日は風組・小林さんのコーディネートで町野での活動を継続する予定です。来月にはボランティア受け入れ拠点として同地区に農業用ビニールハウスを建て、その中にボランティアの簡易宿泊ができるようにしたいと思っています。

  全体的に能登地震被災地への関心も低くなってますが、まだまだボランティアの活動は現地で必要です。復興への歩みを止めないためにも、栃木からできる支援の形を模索していきたいです。(高橋)  

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仮設住宅での支援、がはじまった。

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ボラ7人まで募集! あと3人行けます。

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気になるこの人!能登半島被災地支援ボランティアで出会った正義の男" まこやん”にインタビュー

 

 

◇県北で社会貢献やボランティア、SDGs活動に積極的に取り組んでいる方々にしょうちゃんが聞く!

今回は能登半島被災地支援ボランティアでともに活動した”まこやん”さんにインタビューをさせていただきました。

 

 

◇お名前は、まこやん!?さん?

まこやんでいいです。さんはいらないから、”やん”が謙譲語です。

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能登半島地震 4日間の災害ボランティアレポ

 2/21-2/24までの4日間、石川県鳳珠郡穴水町で災害ボランティアをしてきた。2/20の22時に宇都宮を出発し、今後4日間を共に活動する初対面のボランティア同士挨拶。車内では少し雑談をした後、おのおの眠りについた。

 約8時間後、運転ボランティアの安全運転のおかげで、無事早朝に穴水町に到着した。道路には大きな亀裂や隆起があり、中心街の道を走ると全壊の建物が目に入る。事前に写真で見ていたが、やはり生で見ると衝撃的で、唖然としてしまう。

 

 活動全般をコーディネートしてくださったのは、名古屋市のNPO法人レスキューストックヤード(RSY)。RSYの活動拠点は学童施設を借りた場所らしく、中に入ると20名ほどのボランティアが集っていた。先日から活動している人から引き継ぎを受ける。初日は水道が復旧していなかったので、トイレトラックの場所や手洗いうがいの水の使い方など聞いた。先週までは、電気も復旧していなかったらしい。

 活動内容は、社会福祉協議会と連携した避難所の運営サポートや、避難所での足湯、個別訪問、他にもボランティアセンターに寄せられたお困りごとに応じた活動など様々。限られた時間、自分に何ができるだろうか。とにかく手を動かそう、と思った。

 

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戸別訪問の活動。最大の課題は「断水」。でも、水が出ると次の課題が…

(活動日記)個別訪問しました。3人1組が3チームに分かれて訪問しました。私は前波地区を回りました。

 水が復旧していない地区は、それが最大の課題です。現在は自衛隊のお風呂や、井戸水を沸かしてお風呂に入っている方が多かったです。

 罹災証明の審査待ちがあり、昨日からやっとこの地区に調査が入ってきたそうです。2階など、上の階の被害がひどく、壁が剥がれたり、仏壇等が倒れたりというお宅もありました。

聞き取りメモ抜粋します。

●50代女性→夫と母と暮らす。前の地震(2007)でも壊れたところがまたやられた。家の中はごちゃごちゃでどうしたらいいかわからない。井戸水を使ってるが少し泥が混じっている。飲料水は給水所など利用。まずは水が出れば。

 

●70代女性→娘2人が被災したため実家である私のところに避難している。福祉バスがなくなったので、娘が通院の送り迎えや買い物をしてくれる。震災があってから、やる気が出なくて料理はしない。医者には注意されるけど、娘が買ってくるお弁当を食べてる。

 

●70代女性→90代母が一人暮らししている家が被災したため、自分の家に避難している。母の家は、たまに2人で片付けに来ている。もう母はこの家では住めないだろうと思っている。

■ ■ ■

 今後来られる方は、個別訪問があるかもしれないので3色ボールペン、シャーペン、ウエストポーチなど動きやすい格好があるといいかもしれません。(まや)

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栃木の「炊き出し弁当」大好評! 輪島・町野地区でとちぎ弁当連絡協議会が活動。市からは週1回コンビニ弁当だけ、らしい。

輪島市町野地区は、朝市の輪島から海沿いに10Km東。海岸は落石等で通行できず、穴水まで1時間戻り、そこから1時間かけて山越えしていく孤立の地区。人口2000人ぐらい。

そこに、2/11から毎週末、栃木の食品系企業「とち弁連」さんがきて毎回50~100食のセントラルキッチンでの炊き出しをやっています。若桑地区22,曽々木50・・とか注文があるのは、在宅避難しているから。半壊・全壊でも自宅の納屋やビニールハウスに寝泊まりしている人も多くいて、水がでないので、調理・洗濯・風呂がままならない。区長(自治会長)さんがとりまとめてくる。

 (公的)炊き出しは「週に1回コンビニ弁当が届くだけ」と、この地区の炊き出し差配ボラの小林さん。あとは自分たちで炊き出しやってきたが、もうその力もなく、あまり潤沢でない物資のなかのレトルト食品などを食べている。もともとスーパーなく食料品店1軒と移動販売しかなかった。震源がすごく近いので、輪島・珠洲並みに家が全壊しているが、「ボランティアはほとんどいない」。少ないけどボラがいる穴水は夢のようだと思った。

「ここの炊き出しを毎日ずっと交代でやり続けているが、何せ素人なので・・・」という。そこで20日前に栃木の給食会社の会長さんに「大量調理プロ」必要、と言ったのがきっかけだった。 

 今日届けた20食は、町野地区の中のさらに孤立集落で「50世帯が11世帯になった。二次避難で転出していなくなったとよ」という。新聞でも「91人が17人に」と報道されている。役

所の炊き出しはなし(災害救助法にあるが)、ボランティアもいない。自分たちだけで2か月やってきた。やっと、とち弁連が届いた。「未来の集落はどうなるのか、いま・これからどうやっていくのか」弁当届けであまり未来が見えない先々を感じてしまいました。たぶん一緒に悩むしかないなーと。

 人気だったのは天丼、とろろ、明太子だったようで、今回は〝あんみつ〟が効きますね! さすがプロでした。(や)

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「水がないのでビブスは、ビニール袋で洗ってる」能登ボラ第8陣報告

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「ただお話を聞くこと、世間話が心の支えになっている」能登ボラ第7陣報告

2/13から2/17(第7陣)に参加した3人の感想です。

 

50代男性ボラ

 現地での活動を通じて気がついたことは、物資や食事の支援は依然必要な状況だ。しかし、ライフラインの復旧とともに、それぞれが孤立してしまっているように感じる。「話す機会がなくて悲しい」という声をたくさん聞いた。

 

30代女性ボラ

 足湯ボランティアや地域の戸別訪問を通じて、ニーズ調査を行った。そこで出てきたニーズにいろいろ対応しています。ニーズから新しい活動にどうやってつなげていけるのか考えて動くことが大切だと感じた。

 現地の方々とお話する中で、ただお話を聞くこと、世間話をすることが、心の支えになってくれている面もあると感じた。

 

20代女性ボラ

 とある地域の戸別訪問では、避難所が解散して、各自が家にもどり、地震後手つかずの状態、つまり1月1日の様子を目の当たりにして、何からしたらよいのか戸惑っている方が多い印象を受けた。

 ◆ ◆

  皆さんの共通点としては、毎日ニーズに応じて活動するので、何をするかは常に変化しているということでした。ボランティアに参加する前には現地での臨機応変に対応することが求められるという点を指摘されていました。

  これまで栃木からのボランティアが様々な避難所に足湯を実施しているため、「また来てくれて嬉しい」と喜んでもらえることがあり、参加してよかったという明るい声も聞かれた。参加する前は「なんで足湯なのかとマニュアルや動画を事前に見たときに思っていたが、実際にやってみると話を聞く、会話するということで、被災者の方々に寄り添うことが大切なことだと実感できた」そうです。

  おかげさまで、段々とボランティアの応募も増えてきてます。現在は運転ボランティアと日帰りボランティアを特に募集しておりますので、ぜひご応募ください。(高橋)

【ボランティア募集】宇都宮⇔石川県穴水町周辺まで、往復で運転をしてくれる方を募集しています

 

あなたの運転が、被災地での支援活動を支えます。

宇都宮⇔石川県穴水町周辺の往復運転ボランティアを募集中。

2人1組で交代して運転します。

3月末まで、毎週火曜と金曜に出発し、翌々日の早朝に返ってくるスケジュールです。

お申し込みは下記のフォームよりお願いします。

https://forms.gle/NHhqGt9dEfDKDrkv7

 ★詳細はお問合せください。

電話 028-622-0021(日月祝休み)


 

特定非営利活動法人とちぎボランティアネットワーク

栃木県宇都宮市塙田2-5-1 共生ビル3階

電話:028-622-0021 FAX:028-623-6036 (日・月休み)

メール:tvnet1995@ybb.ne.jp