「子どもが私たちの気持ちに気づいてくれるときには、自分たちはもうこの世にいないのでしょうね・・・。」
あるお母さんの口からこぼれた言葉です。
このお母さん、ご自身が幼い頃に母親を亡くされ、結婚した後は厳しい姑にひたすら仕えてきました。
母親がいつもいつも姑に意識が奪われていたその陰で、“お母さんはこんなにおばあちゃんのことで大変なのだから、自分はわがままを言っちゃいけない、我慢しなきゃいけない。”
「息子は、そう感じていたのだと思います。」と目を伏せる母親。
社会になかなか踏み出せないでいる息子さんに対し、思う存分甘えたいときに愛情を注いであげることができなかったことを、母親はどれほど悔やんでも悔やんでも悔やみきれないでいる。
あの時の自分にはどうすることもできなかったけれど、母親自身、今更取り返しがつかない現実をどう受け止めたらいいのか分からない。
そのような状況の中で、動き出せない息子と一緒に沈んでいるのではなく、せめて自分だけでも明るく振舞って活動的にしていようと、友達とお茶しに行ってきた夜に息子さんに言われたひとこと。
「僕がこうして何もできないでいるのに、お母さんはお茶しに行けていいね。」
「ごめんねって、笑って誤魔化すしかありませんでした。本当は“あなたのこと、片時だって頭から離れたことないのよ”って喉まで出ましたけど・・・」
そうおっしゃった後に、はらはらと涙を流されながら冒頭の言葉が続きました。
常日頃、こんなにも子どもは強く親を求めているのに、なぜ親としての立場や気持ちを脱ぎ捨てて、真っ新な心境で受け止めてくださらないのか・・・そう感じることが多いのですが、前述のお母さんの言葉からは、母親としての苦悩や悲しみがひしひしと伝わってきて、何ともやりきれない気持ちになりました。
先ごろ話題になった、岡田尊司著「母という病」の中に出てくるケースのひとつひとつが、私たちが出会った親子に重なりあい、改めて母親という安全基地をもつことの大切さを思い知らされます。
もうすぐ母の日・・・。
母親と子どもの大切な瞬間に、こうして立ち会わせていただいていることに感謝をこめて。
(つかもと・あ)